10日ほど前だったかに,新聞広告でみつけかいにいきましたら、
もう売り切れていて注文をして、やっと手元に届きました。
細かい字が一杯300ページの本、エッセイ「図書館猫デューイ」です。
なんともいえないネコの写真が表紙の帯びに出ています。
彼は知る人は知るネコなんだそうです。
日本でもTV番組になんかいも出たり、その死亡記事も出たとか。
私はこういう動物物語は苦手です。
どんな素敵な動物たちでも,必ず悲しい別れがエンディングではありませんか。
「山古志村のマリ」新潟地震のときに自分も子供を生み、下敷きになったおじいさんの救出を教えながら、現地に取り残されたワンコのお話。
それは、悲しいエンディングではなかったですが、置き去りにされるときは悲しいところです。
後は皆、悲しいエンディングがつらいです。
それなのにどういうわけか、この本を読みたいと思ってしまいました
図書館ネコ、デューイ。
アメリカの小さな田舎町の凍えるような冬の朝。
出勤してきた図書館長のヴィッキーは、本の返却ボックスの中でうずくまる子猫、推定8週間を見つける。
手足はしもやけにかかって、やせてこごえそうなネコ。
助け出されると、けなげにもその脚で立ち上がり、ヴィッキーに手足をこすりつけて挨拶をした。
信頼しきった大きな目と、人懐っこい表情!
このこは図書館で必要な存在だとヴィッキーは直感する。
鉄道の駅も、ちょっとした企業からも振り向かれないアイオワ州のスペンサーという町の図書館ネコ。
とくに、図書館に理解があるわけでなく、インテリが多いわけでもない町の図書館で、このネコは幸運をもたらす。
町の人を勇気づけ、アメリカ中から、世界中から彼をみにきたいと思わせるネコになる。
自身の病気や子育てに苦労しながらも、デューイの世話をし、ともに図書館を盛りたててきた図書館長が、町の人々に、そして世界中に愛された一匹のネコの一生を愛情をこめてつづったおはなしです。
彼女はデューイは特別なネコと位置づけています。
すなわち、彼女の考えていることをデューイは感じて、自身の仕事と思う事をこなす猫であると。
これは猫を飼ったことのある人でも,分かりにくいと思います。
私は、10年ほど前になくした、「トム」という猫がそのたぐいでしたので、理解できます。
猫でも、飼い主との関りとか、相性みたいなものがあって、いわなくても理解しあうことができるのです。
多分,どれくらい猫から信頼されているかだった、と思うのです。
たとえば、「注射やレントゲンを取るから我慢してね」。というとトムはちゃんと聞き分けそのように我慢をして振舞いました。
これが「トム」です。
デューイもよく自分の図書館での仕事をわきまえ、みんなの気持ちを和ませ、豊かな暖かい気持ちにするのです。
人間は文明とか文化を手に入れました。
そのかわりに、言葉を使えない生き物との交流を忘れつつあるのでしょうか。
人間とは、交流できない生き物が増えてきたのは、そういうこともあるかもしれません!
デューイがなくなったのと同じ齢のモモちゃんや、齢のちかい、ライちゃんなどが我が家にいます。
彼らはニャァニャといえば通じると、思ってると思える節があり、
私は、時々自分が猫の小間使いかしら!と思うこともあるのです。
それは、すごい自分のおごりで、彼らの愛情を感じない心の時ですよね。
この本を読んで、デューイは特別な猫だけれど、
私にとって特別な我が家のニャンコたち、「ものをいわないニャンコたちの心を感じられるように心がけよう」と思ったのでした。
陽だまりで寝てるモモ。右はライにロンがちょっかいを出しています。
ベランダには出ないようにしつけられていますので、ばらの匂いだけかいでいるりんちゃん。