島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

50-2桓武天皇皇后藤原乙牟漏

2019-08-14 | 天皇陵巡り
 
 奈良時代末のおさらいになります。
藤原乙牟漏(フジワラノオトムロ)(760~790)の父親は、藤原四兄弟の式家の宇合(ウマカイ)の次男である良継(ヨシツグ)【宿奈麻呂スクナマロ】です。
宇合の長男であった兄の広嗣(ヒロツグ)が、聖武天皇時代の740年に九州で広嗣の乱を起こし、遠い値嘉島(五島列島北の宇久島)で捕えられ斬刑なった時、弟の良継も連座して伊豆国へ流罪となりました。
 
 良継はその後許されましたが、当時は南家藤原仲麻呂の絶頂期であり、乙牟漏が産まれた頃は不遇の日々をおくらざるを得ませんでした。
一時は仲麻呂暗殺計画(763年)まで起こしましたが、失敗して姓も剥奪された時もありました。
  
 しかしこの藤原仲麻呂が764年に恵美押勝の乱を起こすと、父良継はその討伐軍に加わて、再び中央政界に復帰しました。
 770年称徳天皇が崩御すると、良継は弟の藤原百川(モモカワ)や従兄弟で藤原北家の藤原永手(ナガテ)と組んで、白壁王(第49代光仁天皇)の擁立に尽力しましたが、、天智系の白壁王をあえて推した理由は、白壁王の息子に自分の娘乙牟漏が嫁いでいることもあったんだと思われます。
 
 白壁王の長男でしたが、母親は身分の低い百済系渡来人の娘高野新笠だったので、まさか天皇に成れるとは思ってなかった頃の山部親王(ヤマベシンノウ)と結婚したので、まだまだ無位だった乙牟漏は、14歳で774年に安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)を産み、781年には夫がまさかまさかの第50代桓武天皇として即位したので、無位→正三位→夫人→皇后と位が上がりました。
 
 785年には息子安殿親王が立太子し、786年には神野親王(カミノシンノウ)(後の第52代嵯峨天皇)を産みましたが、789年高志内親王(コシナイシンノウ)を産んだ翌年に31歳で亡くなり、考古学的には4世紀代の古墳であるこの高畠陵(タカバタケノミササギ)(京都府向日市)に葬られました。
 天之高藤廣宗照姫之尊(アマカツタカフジヒロムネテルヒメノミコト)

      返事

花水木さん:当リを跨ごうとして跨ぎきれず、
    前方に唐黷アみました。
    頭では出来そうなことが出来なくなってます。
     当時の奈良仏教界が平安京に遷都したくなかったので、
    「ナクヨ坊さん」の方が、理屈にあった憶え方だと思っています。
大雪男さん:自転車通勤の時は帽子を被るようになりました。
    京都の夏は死ぬほど暑いですので、気力も萎えます。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

50-1桓武天皇

2019-08-08 | 天皇陵巡り
 
 私が働いてる所の一つは、京都伏見の南の端の丘陵の上にあります。
すぐ近くにある写真の小さな丘のような森は大亀谷陵墓参考地で、ここは宮内庁管理地ですので、被葬者候補としては桓武天皇の名が挙がっています。
 
 この辺りの丘陵地はまた、昔は豊臣秀吉の築いた伏見城とその城下町があった所で、黒田長政の屋敷跡参考地も、すぐ近くにあります。
 
 5分ほど歩くと、この伏見城を模して遊園地(伏見桃山城キャッスルランド)内に築城された城は、15年以上前に遊園地が廃園になった後も残っています。
 
 ということで、この近くにある第50代桓武天皇(カンム)の柏原陵(カシワバラノミササギ)(京都市伏見区桃山町)は仕事帰りに簡単に行けました。
 
 天皇の地位からは程遠かった天智天皇の孫白壁王の第1皇子として、渡来系の身分の高くない母高野新笠が山部親王(ヤマベシンノウ)(後の第50代桓武天皇)を産んだのは737年、父白壁王はその時28歳ぐらいです。
 その33年後に、父白壁王は第49代光仁天皇になってしまいましたが、皇太子になったのは第1皇子の山部親王ではなく、異母弟で二回りも若い他戸親王(オサベシンノウ)でした。
 
 その後、以前のブログでも書いたように、他戸親王が廃されたため自分が皇太子になり、781年父光仁天皇の後、なれそうになかった天皇になった山部親王は第50代桓武天皇(737~806)在位781~806)として44歳で即位しました。
 
 京都岡崎の名所、明治になってから作られた神社にすぎない平安神宮ですが、祭神は平安京を開いたこの桓武天皇ですし、坂上田村麻呂を派遣して蝦夷征伐したことでも有名で、比較的皆が知ってる桓武天皇です。
 
 794年(ナクヨ坊さん平安遷都と憶えましたね)、奈良の仏教世界から逃げ出したかったのか、曾祖父天智天皇のように遷都したかったのかもしれませんが、最初に動いた長岡京は藤原種継の暗殺や早良親王(サワラシンノウ)を死に追いやった土地であったので離れざるを得なかったのか、いろんなことが重なって平安京に都を移した桓武天皇です。
 又、他戸親王や早良親王と一応自分の兄弟が、藤原一族の覇権争いに巻き込まれたような形で亡くなり、自分が天皇の地位についたという負い目と崇り信仰にも苦しめられたようです。
 
 京都に都を移してくれた桓武天皇が眠る柏原陵は、京都を去って都を東京に移した明治天皇陵と、皮肉にも並ぶようにありますので、この参道を歩くと両方の陵に行けることになってます。
それでも、この有名な古代でもない桓武天皇陵でさえも、ここが真陵かどうかは不明のようです。

    返事
花水木さん:暑い暑いのに、外人観光客は減りませんね。
     熱中症になりかけたようですね、
    山頂の御陵でしばらく休んで(動けなかった)から下り始めたので、
    なんとかもったのかもしれません。
     ほどほど程度も出来ない体にならない程度に、体を鍛えたいと思ってます。
大雪男さん:一度前にバッタリ唐黷ト、
    スマホが飛んでいきました。
     黒ごまアイスクリームで、味は美味しかったですよ!
     阪神はやはり無理ですね。

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大覚寺

2019-08-05 | 京都
 
 天皇陵巡りもいよいよ次は第50代桓武天皇にまで至りました。
都も奈良から京都平安京に移りますので、歴代天皇陵も京都が多くなってきます。
したがって、天皇陵を巡るついでに、ブログの更新数を増やすためにも、色々京都の名所も紹介していこうとは思っています。
 
 嵐山の渡月橋や天龍寺周辺は、今や外国人観光客であふれかえり、その人々は野々宮神社や苧ムの小径にまで及んでいますが、そこからもう少し歩くここ大覚寺や大沢池は穴場になってるのか、芋の子を洗うような数の観光客はいませんでした。
 
 宸殿(シンデン)は江戸時代の建物ですが寝殿造りなので、御所の紫宸殿と同じ感じでした。
 
 右近の橘・左近の桜と、今は言ってますが、昔は花と言えば梅のこと、ここ大覚寺では平安時代の古式に則り、左近の「梅」が植えられていました。
 
 縦の柱を雨に、直角に曲がった回廊を稲光にたとえた「村雨の廊下」と呼ばれる廊下をつたって、境内を巡りました。
廊下の天井も江戸時代の建物のようなので、刀を振り上げられないように天井は低く作られているようです。
 
 観光客は少なく、静かで落ち着いて廻れます。
拝観料500円も、一人ならまあいいでしょう。
 
 
 もちろん大覚寺境内からも大沢池は見渡せました。

       返事
花水木さん1:夏の木漏れ日の中を二人で歩きたかったですが、
    土曜日の猛暑日に、一人で天皇陵巡り最大の難関と言われてる淳和天皇陵に登りました。
    往復15Km、熱中症になりかけぐらいで、足元もおぼつかなくなり、腰もいたく、
    ふらふらになってしまいました。
    もうこんなことは無理な体になってしまったのか、
    いやいやもう一度体を鍛え直して、大雪男さんのように生きていくのか、
    麓まで降りても食事はする気にならず、
    氷水を飲んで、パフェを食べながら考えてしまいましたよ。
大雪男さん:本当に夢が現実になってきましたね!
    広島→横浜→巨人になりそうで、
    こうなったら、広島→横浜→阪神までいかないかとも思いますが、
    まあ高望みはせずに、今季は最下位脱出ぐらいの希望にしておきます。
花水木さん2:もう巨人の世の中ではないんですよ!
    阪神の世の中でもないんですがね。

 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大沢池

2019-08-02 | 京都
 
 嵯峨野にある天皇陵巡りの時に立ち寄った大沢池(オオサワノイケ)。
近くの広沢池(ヒロサワノイケ)はよく行きましたが、記臆にある限り、この大沢池を散策するのは初めてぐらいと思います。
 
 第52代嵯峨天皇が造営された離宮「嵯峨院」の苑池で、中国の洞庭湖になぞらえて「庭湖(テイコ)」とも言われ、わが国最古の人工の林泉(林や泉水のある庭園)です。
池に沿って木立の中をぐるっと一周(約1Km)してみました。
若い時にアベックで来たかったですし、今なら睡蓮(蓮かも)が満開だそうです。
  
 右の高い木のある島が天神島で、左の楕円形の島が菊ヶ島(キクガシマ)、その間に庭湖石(テイコセキ)があります。
 この菊ヶ島に生えていた嵯峨菊(花弁が細長く真っ直ぐな菊)を、船を浮かべていた嵯峨天皇が手折って、殿上の花瓶に挿したのが、華道の始まりと言われてます。(京都のへそ、六角さんではまた違う話を書いたような気がします)
その生け方を(二島一石の池の配置と同じ)伝えているのが嵯峨御流(サガゴリュウ)です。
 
 池の端には有名な名古曽の滝跡があって、その石組も再現されていました。
 
 200年後、大納言公任が、大沢池もさびれて滝も流れが無くなってからうたった、小倉百人一首の55番目の和歌はこの滝のことです。
 「なりぬれど」の後「な」ばかり続いて、リズミカルでうたいやすく憶えやすい和歌です。
 
 大沢池に船を浮かべての観月、ここは月の名所でもあります。
この観月台に立って松尾芭蕉が、
     名月や  池をめぐりて  夜もすがら
と詠んだのは900年後ですし、今私がいるのは1200年後になりますね。

     返事
大雪男さん:巨人がもっと落ちてくることを祈るばかりですが、
    残念ながらCSに阪神はちょっとしんどい感じです。
     私はむしろダイエットをしてるんですが、
    上腹部が異様にャRッと出てきています。
花水木さん:妄想の中では絵になってるつもりなのですが、
    現実はなかなかです。
    男一人で食べるにしては、金額と内容があってない感じはします。
    一人で贅沢な昼はいらないんですが。

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする