島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

50-4桓武天皇皇子伊予親王

2019-08-24 | 天皇陵巡り
 
 木曜日の午後の仕事を辞めたので、午前中の仕事を終えて山の上の施設から、いつもの帰りとは逆の方向に降りて行き、色々訪問すること(道草です)が増えました。
山から降りた所が、写真の奥に見えてる六地蔵方面、京アニの放火殺人事件のあった所です。
 
 降りて行く途中を少し外れて、住宅街の中を探していると、なんの目印も無くなかなか見つからなかった伊予親王(イヨシンノウ)(783?~807)の巨幡墓(コハタハカ)(京都市伏見区)を、この奥に見つけました。
正式には黄金塚2号墳と言う、元々は120mもあった前方後円墳らしいです。
 
 第50代桓武天皇は26人の女性を娶り、35人の子供をもうけていますし、この内の3人が天皇になりました。
 この伊予親王も、藤原南家の恵美押勝の乱を起こした仲麻呂の甥である藤原是公(フジワラノコレキミ)の娘で、桓武天皇夫人の藤原吉子(キッシ)から産まれていますので、天皇になっても不思議はなかったようです。
 
 父の桓武天皇には愛されていたようですが、桓武の次の天皇になったのは、異母兄の第1皇子である第51代平城天皇です。
 兄の平城天皇に疎まれていた可能性もあるし、藤原四家の間の権力争いもあって、伊予親王が謀反の首謀者だと言われ、母吉子と共に捕縛幽閉されました。「伊予親王の変(807年)」
 
 「伊予親王の変」を日本史で学んだ記臆が全く無く、その墓が勤務地の近くにある自覚も、残念ながら私には全くありませんでした。
 この不幸な母子は、幽閉後1ヶ月ほどして、二人とも毒を仰いで自害したそうです。
 
 恵美押勝の乱でボロボロになっていた藤原南家は、これでとどめを刺されたようですが、後に伊予親王は無実とされ、母と共に復号・復位されました。
こんなこともあってかどうか知りませんが、墓の中央には石の宝塔が立っていました。

コメント (1)
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