島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

第10回桂南光独演会

2021-10-13 | 趣味
 
 生協で家内が買ってくれたので、府立文化件p会館の第10回桂南光独演会(4000円)に行きました。
先週土曜日午前に、自転車で二人で出発、帰りは近くで少し遅めの安いランチ、大学周辺に行くのも久しぶりでした。
 
 昨年は入場制限をしたのか、券が1枚しか当たらず、一人で行ったのですが、去年の写真のように席も一人おきで、パーテーションも付いていました。
 
 今年はもう隣の席はおばさんですし、横の席は家内です。
ほとんどの観客は、私たちぐらいの人でした。
 この1年映画演劇に行かなかったので、場内案内があるまで、携帯の電源を切らなければならなかったことも忘れていました。
 新型コロナの次の時代を考えて、老い先も短いので、やりたいことをやっていきたいと・・・・。

         返事

Toitenlabeeさん:慣れで運転はそんなに疲れませんが、
    京都ー長崎港800kmを一気に走る元気はもうありません。
大雪男さん:大雪男さんもよく動いてますね。
    夜の登山は浮ュないですかね、気を付けて下さい。
     巨人戦3連勝、ヤクルトは中日に3連敗でもしてくれたら、
    嬉しいのですが・・・・。


コメント (1)
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紅ズワイ蟹

2021-10-09 | 
 
 10月1日に非常事態宣言も解除されて、一応どこに行っても良いことになりましたが、そうなるともうどこも行きたくなくなって1週間。
1週間たつとやっぱりどこかに行きたくなって、松葉ガニではないですが、紅ズワイガニは解禁になってるので、越前海岸までゆっくりドライブ。
 その日の日本海はべた凪です。
 
 
 紅ズワイ定食と刺身定食を二人で分けあって食べました。
紅ズワイも、濃厚さでは松葉ガニに負けますが、身も詰まっていて、二人で食べて十分の量。
刺身がまた美味しく、やっぱり海のそばに住みたいですね。
カレイ?の煮つけも、抜群のお味で、イカの入ったマカロニサラダさえ美味しいですし、これでファミリーレストランで食べるのより安いぐらいですので、3時間かけて来た甲斐は有りますね。
 
 せっかくなので越前海岸のもう少し先までドライブ、久しぶりに呼鳥門(コチョウモン)も見学。
大学生の頃や子供と一緒に来た頃は、洞穴の下は国道だったので、車でくぐれましたが、今はトンネルが出来きれいに整備されて、真下には行けないようになっていました。
 
 もう少し行くと有名な東尋坊なのですが、越前海岸一番北ぐらいのこの鉾島(ホコジマ)も、東尋坊と同じ玄武岩の柱状節理で出来ていました。
 
 帰りはちょっと北陸自動車道路にも入りましたが、南条SAはやけに車が多いと思ったら、併設の道の駅が丁度その日にオープン、綺麗で綺麗で、道の駅にしては綺麗すぎるし、人も多かったので、休憩は次のPAに変更。
 
 PAで、パンナコッタとパイナップル入りのメロンフローズンジュースという、わけが判らんジュースを飲んで休憩。
疲れて帰ったら、阪神はヤクルト3連戦初戦を落として、これで優勝はかなり難しくなりましたね、お疲れ様でした!

        返事
Toitenlabeeさん:なんで桜のコメント、
    と思ってしまいましたが、
    私が桜や花見を書いたからですね。
    なんか最近本当のボケが進んできています。

コメント (2)
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北朝3-4後崇光太上天皇貞成親王

2021-10-06 | 天皇陵巡り
 
 北朝3代崇光天皇の第1皇子栄仁親王(ヨシヒト)(1351~1416)と御息所正親町三条治子(ミヤスンドコロオオギマチサンジョウハルコ)との間に、第2皇子として産まれたのが貞成親王(サダフサシンノウ)(1372~1456)です。
前回紹介したのは、第1皇子で兄の治仁王(ハルヒトオウ)(1370~1419)でした。
  伏見の商店街から南へ、酒蔵のある辺りからも少し外れて、急に人通りが少なくなった桜の季節、伏見松林院がありましたが、門前までです
 
 貞成は幼少時は他家(今出川家)で養育され、1411年40歳にしてやっと父伏見宮栄仁親王の下に迎えられ、元服しました。
5年後その父が亡くなり、同母兄治仁王が第3代伏見宮家当主になりましたが、数カ月後に急死したので、貞成が第3代当主になりました。
  伏見松林院裏手に、自分自身は天皇には成れませんでしたが、息子が天皇に成ったので、太上天皇の称号も与えられた貞成親王の立派な陵を見つけました
 
 元来崇光の系統は皇位に就かないと約束はさせられていましたが、同じ北朝の後光厳天皇系からは、いつまでも皇位を狙ってると恐れられていたのか、貞成が兄治仁王を殺したとの疑いを広められ、これは後小松院や4代将軍足利義持によって否定され、貞成は助かっています。
 
 後光厳系のやや精神的に問題があった第101代称光天皇(1401~1428)(在位1412~1428)からは、自分の女を懐妊させたと密通の疑いをかけられたり、1425年には後小松院の猶子となって親王宣下を受けたので、父の後小松院とは元々仲が良くなかった称光天皇の怒りを買い、貞成親王は出家し、道欽入道親王(ドウキンニュウドウシンノウ)となりました。
  写真は拝所正面
 
  貞成親王は御息所庭田幸子(ニワタユキコ)(1390~1440)との間に、後に第102代後花園天皇に成る彦人王(ヒコヒトオウ)(1419~1471)や第4代伏見宮貞常親王(サダツネ)(1426~1474)をもうけていました。
そして称光天皇が崩御すると、北朝後光厳系には跡を継げる男子がおらず、念願かなってやっと北朝崇光系の貞成親王の息子彦人王が皇位に就きました。
 
 息子後花園天皇治世の最初は、後小松上皇による院政でしたが、1433年後小松が崩御後は、貞成親王(道欽入道親王)は天皇の実父として、この辺りに伏見御所を造営し法皇として(後崇光院)太上天皇の尊号も受けましたが、表向きはこれを辞退しています。
 墓所は立派な伏見松林院陵(フシミショウリンインノミササギ)(伏見区丹後町)に後崇光太上天皇陵と有りました。
  御陵周囲は静かでしたが、少し運河の方へ歩くと、今年春の新型コロナ時代でも、それなりの花見客でにぎわっていました

         返事
Toitenlabeeさん:どちらかと言うと私に出てるのは、
    年寄りの疲れだけですかね。

コメント (1)
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北朝3-3後伏見天皇皇玄孫治仁王

2021-10-02 | 天皇陵巡り
 
 緊急事態宣言もやっと解除され、昨日1日は早速滋賀県で食事はしましたが、すぐに帰り、今日土曜日はどこに行っても良いのですが、朝からブログを書いて、あまり他府県に行く気にならない天邪鬼です。
 前回の栄仁親王(ヨシヒト)(1351~1416)と御息所正親町三条治子(?~1399)との間に産まれた第1皇子が、今回の治仁王(ハルヒトオウ)(1370~1417)で、同母弟に貞成親王(サダフサ)(1372~1456)がいます。
  後伏見天皇皇玄孫治仁王とある、大光明寺陵の制札ですが、第93代後伏見天皇から数えて(後伏見-光厳-崇光♂h仁-治仁王と)4代目になります。
 
 本来の長子相続なら北朝天皇は光厳-崇光-栄仁℃。仁と続くので、治仁王は天皇に成れても不思議ではなかったのです。
しかし、治仁王が産まれたのは持明院統の時代でも、後光厳-後円融-後小松の時代で、祖父崇光の弟の系統が皇位に就いてる頃でしたし、南朝でも、長慶-後亀山-後小松の時代でしたので、天皇位は治仁王にとってははるかかなたでした。
  やや右に廻ってますが、ほぼ直線の明るい開放的な参道です
 
 1408年第100代後小松天皇の時代に、やっと元服できた治仁王は、1416年に父栄仁親王が亡くなると、伏見宮第2代当主となりましたが、数カ月後には急死しました。
伏見宮家廃絶を望む人がいたのか、弟貞成親王に殺されたとの風説が流れましたが、後小松上皇と第4代将軍足利義持により安堵され、治仁王には女の子しかいなかったので、弟貞成が第3代伏見宮当主になりました。
 墓はこの北朝2代崇光・3代光明と同じ大光明寺陵(ダイコウミョウジノミササギ)(伏見区桃山町泰長老)に有ります。

 10月・11月ぐらいは新型コロナも落ち着いてると思われるので、また旅行など遊べそうですが、なんか自粛中に気力が萎えてきていて、解除されても今はまだ予定なし。
今週の休日は変わらず競馬と阪神とWOWOWですかね。

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