『世界の城郭・宮殿 18-2(世界最強の城ランキング 第1位~3位)改訂版』
『城の強さを日本流区分、①縄張り、②普請、③作事、から判断』
何でもランキングするこの頃ですが、城郭の強さについては、時代・年代のよっては、比較が、難しいですが、 『①縄張り、②普請、③作事』、に①縄張りに実際の攻城戦の記録を引用し、今後の引き続きの調査課題としました。
1位 コンスタンティノープル(築城4世紀・トルコ)
『コンスタンティノープルの縄張り』
この城の広さは、オランダ運河防塞線内に囲まれたアムステルダムや、中国の南京城、北京城、長安城、フランスのフランス・ベルサイユ宮殿、日本の江戸城に次いで、世界の歴代第8位になります。 330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落であった。 コンスタンティノープルの陥落・東ローマ帝国の滅亡。
東ローマ帝国時代のコンスタンティノープル
ウキペデイアから引用
コンスタンティノープルの陥落
世界の歴史の中で、中世と近代の分岐点になったといわれる「コンスタンティノープルの陥落」。 西洋と東洋の間に位置するコンスタンティノープルは、難攻不落の街として西ローマの滅亡から1000年に渡り東ローマを様々な侵略者から守ってきました。
オスマン軍は、『空前絶後の、艦隊の山越え』を敢行し、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルが陥落した事件。 この事件により東ローマ帝国は滅亡。 また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。
コンスタンティノープルの包囲戦後半で「オスマン艦隊の山越え」が行われた後の両軍の配置
ウキペデイアから引用
『コンスタンティノープルの普請』内壁の高さは12ⅿ、幅は6ⅿ
ウキペデイアから引用
『コンスタンティノープルの作事』
初期ビザンチン建築の最高傑作
ウキペデイアから引用
2位 クラック・デ・シュバリエ(築城12世紀・シリア)
『クラック・デ・シュバリの縄張り』
シリアに築かれた十字軍時代の代表的な城で、当時の築城技術の粋を究めたものと評価されている。 1163年にイスラムのザンギー朝のヌールッディーンの包囲を受けたが、これを退ける。 1188年にイスラムのアイユーブ朝のサラディンによる包囲にも耐え、1207年にはサラディンの弟アル=アーディルの攻撃を凌いだ。 1273年の第9回十字軍時にイングランドのエドワード1世がこの城を訪れており、これを参考にしたエドワード式コンセントリック型の城をイングランドやウェールズに多く築いた。 アラビアのローレンスは、この城を世界で最も素晴しい城だと述べた。
ウキペデイアから引用
『クラック・デ・シュバリの普請』 城壁高:20m
ウキペデイアから引用
『クラック・デ・シュバリの作事』
ウエブ情報から引用
3位 ドーバー城(築城11世紀・英国)
『ドーバー城の縄張り』
ドーヴァー城はイギリスのケント港湾都市ドーバーにある城。 11世紀に建設され、歴史を通じてその戦略的な重要性から「イングランドへの鍵」と呼ばれた。 ウィンザー城と並んで、イングランド最大の城砦とされる。
ウキペデイアから引用
ドーヴァー城包囲戦(1216年7月19日~10月16日)
ヘンリ2世、リチャード1世を継いだジョン王はフランス王フィリップ2世によって1206年までにフランス側領土の大半を喪失、起死回生を狙って神聖ローマ帝国や反フランス王諸侯と同盟を結んで臨んだ1214年のブーヴィーヌの戦いでも大敗し、1215年、諸侯の反乱を招いた。反乱諸侯はジョン王に替わってフランスの王太子ルイ(のちのルイ8世)にイングランド王即位を求め、フランス王もこれを承認、1216年6月、王太子ルイ率いるフランス軍がイングランドに上陸した。ジョン王は劣勢の中ロンドンから逃亡、ルイはロンドンに入城したあと、自ら軍を率いて1216年7月19日、要衝ドーヴァー城の攻略に取り掛かる。
ルイはブーヴィーヌの戦いの前哨戦で別動隊を率いてイングランド軍を敗走させるなど父王フィリップ2世の覇業を助けて数々の軍功を挙げた戦上手で知られた人物である。即位後には南フランスを一気に征服するなど、後に「獅子王(le Lion)」の異名で知られることになる知勇兼備の勇将であった。
ドーヴァー城は城将ヒューバード・ド・バークが守りを固め、三か月に渡ってルイの猛攻をしのぎ続け、あわや落城かというところまで追い込まれながらも、結局ルイは落城させることができなかった。そのドーヴァー城の奮戦に応えて10月に入りケント一帯で反乱が勃発、ルイはついに攻略を断念して10月16日、和睦を申し入れる。さらにその3日後10月19日、まさかのジョン王病死によって、ルイはイングランド攻略の大義名分を失い、幼い王太子ヘンリがウィリアム・マーシャルらに擁立されてヘンリ3世として即位するとルイ派は劣勢に追い込まれ、1217年、リンカンの戦いで敗北、撤退を余儀なくされた。
これが、ドーヴァー城が亡国の危機を救った”最初の”戦いだった。
その後、イングランド内戦中、ドーヴァー城は国王派の支配下にあったが、1642年に議会派によって奪取された。 ドーバー城の攻防は内戦の記録だけで落城したことはない。
『ドーバー城の普請』 城壁高:24m
ウキペデイアから引用
『ドーバー城の作事』
改装されたゲストホール
ウエブ情報から引用
騎士たちが居並んだ風景が偲ばれます。
城は守るものですが、歴史上、城で国民を守れた時代は短かった。
(初版記事投稿日:2021/01/02、改訂版投稿日:2023/12/03、#704)