知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『運河のこと 3(パナマ運河、5年間住んで、理解したつもりが)』  『フランスは水平式で失敗、米国が現行の閘門式に変更して成功!』

2024-01-22 22:49:00 | 河川・運河
『運河のこと 3(パナマ運河、5年間住んで、理解したつもりが)』 

『フランスは水平式で失敗、米国が現行の閘門式に変更して成功!』

『1970年代、第2運河・水平式を、建設費削減に原爆での掘削案まで検討が』
『水平式の問題、太平洋とカリブ海の潮位差が大きく、生態系の差も大きい』
   
『あきずに、ひねもす見ていた運河ですが、その建設と歴史には、いろいろと、日本との関連があったことに驚きが』

『ところが、最近、異常気象による異常渇水が、パナマ運河の所以?「熱帯雨林気候で潤うガトゥン湖(湖水面海抜26ⅿ)の無限の水を利用したパナマ運河(フランスの水平式に対する米国案の閘門式)は、今は、水不足で、距離約80㎞の運河を通航できる船舶数が限定され、数日あるいは数週間にわたって列を成して待機する状況が発生している』

パナマ運河断面図
 
ウエブ情報から引用
英語の運河(カナル)も、日本語・中国語の運河の意味も、ほぼ同じで、『船舶の航行、灌漑、給排水などのために陸地を、切り開いてつくった人工の水路』ですが、英語のカナルには『管』の意味もある。 

世界的に有名な運河は、
  • 水平式(海面式)スエズ運河(193㎞、 高低差なし、 工期1859-1869)
  • 閘門式パナマ運河    ( 82㎞、 高低差26m、  工期1905-1914)
  • 閘門式大運河・京杭大運河(1794㎞、高低差40-50m、工期 BC5-AD6世紀)
規模と工期から見ても中国の、京杭大運河はスケールが違う、世界の三大運河は、スエズ運河、パナマ運河、キール運河ですが、京杭大運河とは、比較対象にならないからでしょうか。

パナマに住んだことのある日本人は勿論、外国人では『あきずに、ひねもす見ていたパナマ運河を』と言う方々を大勢知っております。 これはパナマ運河の波乱万丈の歴史とエピソードを知れば知るほど、見るたびに、それが脳裏をめぐるからであろうと思います。

  • パナマ運河完成までに出た犠牲者の数は 合計 27,600人で、運河1㎞当たり死者 345 人 の割合でした。
  • 1887年、売れない画家だったポール・ゴーギャン(1848~1903年)は資金援助をあてにして親戚が暮らすパナマに渡る。 が、期待は見事に裏切られ、パナマ運河の切削作業員としてアルバイトせざるを得なくなりました。
  • 20世紀最大の土木工事であった、フランスによる運河建設と挫折。 理由は黄熱病やマラリア等、沢山あるが、パナマ地峡の山地は標高195mのゴールドヒルを最高点とする運河掘削地域。 平均標高で70m程度(クレブラの丘、標高103m)であり、ここに水平運河が無理であったのが一因。(表題『1970年代、第2運河・水平式を、建設費削減のために原爆での掘削案まで?』参照)
  • フランスは挫折の後、難工事とマラリアの蔓延により放棄。 その後、その後、パナマ運河地帯としてアメリカ合衆国によって建設が進められ、10年の歳月をかけて1814年に開通した。 長らくアメリカによる管理が続いてきたが、1999年12月31日正午をもってパナマに完全返還された。 米国が引き継いだ背景は、

パナマ運河会社の倒産によって、フランス共和国は運河建設から事実上、手を引くこととなり、運河建設はアメリカ合衆国によって進められることとなった。太平洋と大西洋にまたがる国土を持つアメリカにとって、両洋間を結ぶ運河は経済的にも軍事的にも必須のものであると考えられた。

パナマ地峡は当初は自治権を持つコロンビア領であったが、パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下に置くことを強く志向した。

アメリカは、1903年パナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し、建設工事に着手した。
1905年にアメリカ資本による建設事業がスタートした。合衆国中を資本が駆け巡り、同年から翌年にかけて全米手形交換所の総交換額は1.5倍に急増した。工事開始後、当初の数年間は疫病の流行などにより工事は遅々として進まず、海面式運河にするか閘門式運河にするかの建設計画さえ決定していない状態だった。

1910年にはガトゥンダムが完成し、1913年にはダムが満水となってガトゥン湖が誕生した。一番の難工事であったクレブラ・カットの開削も完了し、パナマ運河は予定より2年早く1914年に開通した。
結局、この工事には3億ドル以上の資金が投入された。 運河収入はパナマに帰属するが、運河地帯の施政権と運河の管理権は、アメリカ合衆国に帰属した。なお、ルーズベルト大統領は完成直前に死去した。
運河の開通した1914年は、第一次世界大戦開戦直後であり、このため運河利用は1918年頃まで低迷を続けた。 しかし1930年代後半になると世界情勢が再び緊迫し、大日本帝国との対立が激しくなる中、アメリカ合衆国連邦政府はパナマ運河の拡張案を成立させ、1939年に着工した。
この工事は別水路を作って、パナマ運河の通航可能量を増大させるもので、新規の閘門を作ることから「第三閘門運河」と呼ばれたが、第二次世界大戦中の1942年に拡張工事は中止された。 しかしこの工事跡はその後も残り、21世紀に入って、パナマ運河拡張案が再浮上した時に再利用されることとなった。 なお、1941年4月に、第二次世界大戦に入ったヨーロッパ戦況の激化を受けてアメリカとイギリス船以外の利用が禁止された。

なお第二次世界大戦中、アメリカ海軍の艦艇はパナマックスサイズで建造されている。これは、大西洋から太平洋戦線、またはその逆の転戦を容易にする為の措置であり、パナマ運河の軍事的要衝の証明である。

新運河建設地は各所で検討された。 アメリカの大西洋-太平洋間運河調査委員会(APIOSO)は、一時、核爆発を利用した新運河建設を検討したものの見送られ、1970年に現パナマ運河に並行して海面式運河を建設する案をニクソン大統領に勧告した。 1970年代に入ると日本の経済的躍進や世界経済の拡大によってパナマ運河の容量不足が徐々に叫ばれるようになり、1982年にはパナマ、アメリカと日本の3か国によるパナマ運河代替調査委員会(3か国調査委員会)が発足したものの、当時のマヌエル・ノリエガ政権はアメリカと不仲であり、この案はいったんほぼ立ち消えとなっていた。

パナマ運河には、壮大なロマンと歴史があります。
(記事投稿日:2024/01/22、#718)
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