知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『古代は、古代人は凄い 7(古代ローマ帝国終焉はコロッセオから)』

2024-03-11 17:05:40 | 歴史・世界・古代
『古代は、古代人は凄い 7(古代ローマ帝国終焉はコロッセオから)』
『コロッセオでの剣闘技はエスカレート、帝国民への娯楽に飽き足らず剣闘士になったドミティアヌス皇帝自身も、実力のほどは?』

NHKBS(2024/01/07)『徹底解明!コロッセオの秘密(再)『エスカレートした剣闘技』に驚きました。 コロッセオは、楕円形の円形闘技場です。

コロッセオ ローマ中心部付近での位置(右上

 ウキペデイア情報から引用

コロッセオ楕円形闘技場(コロッセオの中央が舞台アリーナ)
コロッセオは、長さ189メートル、幅156メートルで、外壁は、48メートルの高さです。 

地下から登場した猛獣の餌食にされようとしているキリスト教徒

ウキペデイア情報から引用

この世界一大きな円形競技場とはいえ、コロッセオの中央の舞台アリーナは、長さ87メートル、幅55メートルの楕円形ですので、模擬海戦はここでは行われなかったのではと思われます。 コロッセオのある『パラティーノの丘、海抜51ⅿ』で得意の水道橋での、注水も大変であったろうと思います、模擬海戦終了後の『舞台アリーナの地下』の排水は、比較的、容易であったでしょうか。 

記録として残っている最初の模擬海戦は、BC46年、ローマにユリウス・カエサルが建設した人工湖で行なわれたティルス船とエジプト船の戦いと伝えられている。 
BC2年には、カエサル庭園の池でアテナイとペルシャの海戦が再現された。
アウグストゥス帝が模擬海戦を行なった人工池は、長径が約550m、短径が約370mあったと言われ、アンシエティーナ水道を経由して、ローマの北にあるマルティニャーノ湖から水を引いていたと伝えられている。 この湖の水は飲み水には適さない悪質のもので、アンシエティーナ水道は模擬海戦のために築かれたと考えられている。
同じ人工池で、ティトウス帝代にはコリントスとケルキラの海戦が再現された。

52年にクラウディウス帝がフチーノ湖で行なった模擬海戦では、ロードス軍とシシリア軍に扮した19000人の剣闘士と罪人が戦った。

ドミティアヌス帝も模擬海戦に熱心で、ティベレ川近くの人工湖で、ほぼ実物大の船を使って実施したと言われ、トラヤヌス帝も模擬海戦場を持っていたとされる。 蚊の発生を避けるため、水は模擬海戦のたびに入れ、終了後排水していたようである。


古代エトルリアを征服し、古代ギリシアを模倣し、ヨーロッパ諸国を席巻した古代ローマという勢力。 王政から共和政、帝政へと移行しながら国土を拡大した結果、自らも手に負えないほどの巨大国家へと膨張しましたが・・・。
ココロッセオでの剣闘技の継続エスカレートと、度重なる大規模な模擬海戦で、ローマ帝国の帝国民の娯楽の提供は、古代ローマ帝国終焉はコロッセオからと言われる所以もよくわかります。

古代ローマ帝国の歴史抜粋
●ローマの夜明け / BC753〜BC272年
紀元前753年、狼に育てられたとされる双子の兄弟ロムルスとレムスが、エトルリアの植民地下にあったパラティーノの丘に都市国家ローマを建国する。王政に始まったローマは共和政へ移行し、民会の設置や法の整備、軍の強化を進めてイタリア半島を統一。

●共和政ローマの躍進 / BC264~BC146年
イタリア半島を統一したローマは、地中海対岸の北アフリカで勢力を拡大していた都市国家カルタゴに標的を定める。紀元前264年、シチリア島の所有権をめぐり戦いの火蓋が切られてから、3度にわたるポエニ戦争の激戦を制して地中海を手中に収めた。

●内乱の一世紀から帝政ローマへ / BC133~200年
領土拡大につれ、多くの奴隷と安価な作物が流入したことで、中小農民が没落。国力は低下し、奴隷もたびたび反乱を起こしてローマ社会は存続の危機に。そこで登場したのが英雄ユリウス・カエサル。彼は数々の内乱を平定し、帝政への下地をつくった。98-117 ADのトラヤヌス帝の治世で、ローマ帝国は最大領土となった。

●東西分裂とローマの滅亡 / 212~476年
ローマがもっとも安定した「五賢帝時代」をへて、ローマは迷走の時代に突入。皇位争いが勃発し皇帝の力が弱まると、異民族の侵入や奴隷の反乱が頻発する。4世紀末に東西に分裂後、100年を待たずして西ローマ帝国が滅亡。古代ローマ帝国は幕を閉じた。

「コロッセオが崩れるとき、ローマも滅びる。そしてローマが滅びるとき、世界もまた滅亡する」と言われるほどの繁栄を誇った古代ローマ帝国。その芽生えから滅亡するまでの、約1200年超の歴史を駆け足で振り返った。ローマ帝国は滅びても、現代イタリアを旅しながら建築や生活様式をとおして古代ローマの面影に出会える、かも?

ローマがもっとも安定した「五賢帝時代」をへて、ローマは迷走の時代に突入。皇位争いが勃発し皇帝の力が弱まると、異民族の侵入や奴隷の反乱が頻発する。 4世紀末に東西に分裂後、100年を待たずして西ローマ帝国が滅亡。 古代ローマ帝国は幕を閉じた。

古代ローマ帝国は西暦395年に東西に分裂した後、東ローマ帝国は1453年にオスマン帝国によって滅ぼされるまで1,000年以上にわたって続いたが、西ローマ帝国はゲルマン民族の大移動の嵐の中、476年に滅亡した。

歴史に『タラ・レバ』はありませんが、古代ローマ帝国が、1000年以上続きましたのは、ココロッセオでの剣闘技の継続エスカレートと、度重なる大規模な模擬海戦などで、ローマ帝国の帝国民への娯楽の提供が無かったらどうなったかと考えてしまいます。
(記事投稿日:2024/02/21、#731)
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『司馬遼太郎氏の「街道をゆく 肥薩のみち」(歴史・地理・人の考察)1』

2024-03-11 10:59:37 | 読書
『司馬遼太郎氏の「街道をゆく 肥薩のみち」(歴史・地理・人の考察)1』
『1971年、作者47歳の時に「週刊朝日」に読み切りに連載を開始、1996年2月の逝去により、43冊目の「濃尾参州記」を最後に絶筆』
『自分には、同氏の小説は「空海の風景』と「峠」が最高。紀行文集「街道をゆく」は、これから読んで残り少ない余生の中で「何ができるか」考えたい』

1984年刊の街道をゆく22巻「南蛮のみち I」で第16回日本文学大賞を受賞。 1994年刊の「台湾紀行」では、台湾問題に対し直截的な意見を述べた。 当時の総統李登輝(司馬作品の愛読者でもある)とも対談し、李が総統就任後初めて台湾の本土化政策に言及した際、司馬は両岸問題に対する中国の姿勢を批判した。 のちに対談の内容が明らかになると、中国及び台湾、日本、アメリカで大きな波紋を巻き起こしたことがありました。

今回は、NHKBS『肥薩のみち』、旅の時期は1972/03/22~03/24の再放送を見ました。 強烈な印象を受けたのは『古代大和朝廷の時代より「熊襲(くまそ)」と「隼人(はやと)」という独立性の高いふたつの民が暮らしていたと記録に残る「肥後」と「薩摩」』という1節でした。 なんと、『この「熊襲(くまそ)」は、邪馬台国の卑弥呼の記録がある「魏志倭人伝」のも載っています』ので、早く、宮崎・熊本の旅を実現したいと思っています。
 
ウエブ情報から引用

このふたつの地は、江戸から幕末、そして明治にかけて対照的な歴史をたどる。 『江戸時代、島津氏のもと独自の気風を養い、明治維新、西南戦争へと突き進んでいった「薩摩」と、それを抑え込む働きを与えられた「肥後」』、この因縁に歴史は凄い、の感を強くしました。

さらに剣について、印象深かったのは『示現流』でした。沖縄空手のルーツは比較的理解しやすかったのですが、薩摩の『示現流』の由来、

『流祖の東郷重位は、元々はタイ捨流を学んでいたが、京都で善吉和尚より天真正自顕流を相伝し、両流派の利点を創意工夫した上で新流派「示現流」を立てた。 技術・系譜的には天真正自顕流の流れにあり、型ではタイ捨流を仮想敵としている。』
タイ捨流
『タイ捨流の「タイ」という言葉には、「体・待・対・太」などの複数の漢字が当てはまる。 「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つ、を捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至る…といったそれぞれの意味が含まれるからである。  漢字では意味が限定されてしまうが、仮名で表すことで何れの意味にも通じることができる。 「タイ捨」とは、これらのすべての雑念を捨て去るという事、ひとつひとつの言葉にとらわれない自由自在の剣法を意味する。』

『示現流』の特徴は、『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせ(『雲耀』うんよう)と教えられる。 初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。 新選組の近藤勇は『薩摩武士の初太刀は避けろ』と言っていたそうです。 但し一般のイメージとは異なり、初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されている。 

稽古には柞(ゆす)の木の枝を適当な長さに切り、時間をかけて充分乾燥させた物を木刀として用い、立木に向かって気合と共に左右激しく斬撃する「立木打ち」など、実戦を主眼に置いた稽古をひたすら反復する事に特徴。 達人ともなれば、立木に打ち下ろすとき煙が出る。

司馬遼太郎も見られた示現流の稽古
片膝を地下手に着くと同時の、凄まじい一撃

ウエブ情報から引用

掛け声は「エイ」であるが、あまりに激しいため「キィエーイ」という叫び声にも似たものとなる。 この掛け声は分派である薬丸自顕流にも受け継がれている。 しかしこの各派共通の反復練習と猿叫は意味を知らぬ者に否定的に見られることもあり、幕末期の薩摩藩主・島津斉彬が薬丸自顕流の稽古を見た際に、「気違い剣術だ」と蔑んだと云われている。 掛け声が「チェスト」とされることもあるが、これは剣豪小説で広まった創作。

やはり『示現流』は奥が深く、これからも、未来永劫の継続に期待して『示現流』の勉強をしていきたいと思いました。
(記事投稿日:2024/03/11、#734)

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