知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』 『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」に記録ある』

2023-04-15 18:38:37 | 日本・歴史・先史-古代

『文学者と医学者と科学者が見た、縄文・弥生・古墳・奈良時代 2』

『邪馬台国の女王 卑弥呼が、貢物を「魏王」に、西暦239年、貢物を献上、魏帝国の正史にと

    される「三国志魏志」に記録あるも、当時日本には文字なし』

 

『歴史再発掘』の著者、副島孝彦氏はこう言っています。 今の日本は、『天皇家(皇室)以外は、皆、平等で、皆、平民、一般人、普通の人たち』という、疑似民主政体デモクラシー)で、デモクラシーと、王国の2重構造、入れ子構造の国だ。 このことは、私の、重要な本である、「愛子天皇待望論」弓立社、2022年刊)に書いた。』そうです。

 

日本の天皇制の歴史は2700年~、皇室は世界最古で唯一「天皇(Emperor)」の称号を持つ。 令和に即位した今上天皇は「126代目」になります。 日本の天皇制の歴史は2700年~、この天皇制にはおける遷都の回数と理由は、今後の課題です。

ウエブ情報の引用

 

副島隆彦氏はこの本の『まえがき』でこうも、言っています。 

『歴史は再発掘されるべきである。 今も隠されたままなっている、大きな真実が土中に埋められている。 それらを敢えて掘り出して、白日の下にさらけ出すことを、私は常に決意してきた。 故松本清張氏の晩年の長い連載作品に「昭和史発掘」週刊文春に連載。 1964-1971年がある。 この歴史発掘という言葉に私は魅かれて、これにあやかろうと思った。 それでこの本の書名となった。』

 

副島隆彦氏の著書『歴史再発掘』の抜粋引用です。

『邪馬台国論争の最前線、

(1)「畿内説」(内藤湖南派)京都大学の学者たちが唱えた。  邪馬台国は奈良県の南にあった。 やや奇抜だが、「畿内説」(奈良盆地説)が近年急激に巻き返したのは、奈良盆地の「纏向(まきむく)遺跡」の中の「箸墓(はしはか)の古墳」が卑弥呼の墓という説。 この古墳は日本最古の前方後円墳でもある。 箸墓古墳はヤマト王権最初の王墓と考えられている。 宮内庁は孝霊天皇の皇女の墓として管理。

 

(2)「九州説」(白鳥倉吉派)主に東京大学の学者たちが主張した。 大陸や朝鮮半島に近い北九州の当たりにあった。 有力であるが、問題は、邪馬台国は3世紀であることははっきりしている。 これが6世紀の畿内の大和朝廷とどのようにつながるか。』

 

『天皇や皇太后葬った「陵(みささぎ)」と、それ以外の皇族の「墓」などからなり、合計850。 他に被葬者を特定できないが陵墓の可能性がある「参考地」が46ある。 皇室用財産として宮内庁が管理する。 明治憲法公布直後の1889年に古墳時代の天皇陵がすべて定まり、その後の変更はない。』

 

『西暦57年邪馬台国『倭奴国』「漢倭奴国王」の金印(見つかっている)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武、印綬を以て賜う」筑前国那珂郡志賀島村東南部(現福岡県福岡市東区志賀島)、1784年4月12日発見された。』

ウエブ情報の引用

西暦239年、邪馬台国『倭国』「親魏倭王」の金印(見つかっていない)

邪馬台国は中国の文献に出てくるコトバだ。 邪馬台国は、中国古代の「魏」という帝国の時に、邪馬台国の女王・卑弥呼が、貢物を「魏王」に、貢物を献上している。 それは西暦239年。 このことが魏帝国の正史にとされる「三国志魏志」の中の第三十の「東夷伝倭伝」にある。

 

その中に、「倭の女王の卑弥呼から、朝貢使が来た」と書いてある。 それに対して、魏の皇帝が、「親魏倭王」という称号を「倭の女王」に与え、承認した

だから邪馬台国は倭国である。 この時国王としての称号と。金の印鑑「親魏倭王」の金印をもらっているが、この金印は見つかっていない。

 

西暦247年、卑弥呼は「狗奴国が攻めてくるので助けてください」と魏の皇帝に使いを出している。

 

狗奴国が攻めてくるというのは、おそらく「熊襲」と呼ばれていた、今の熊本や鹿児島に住んでいた人たちだと私は思う。 魏は助けには来なかったが、錦の御旗を送ってきた。 このあと「倭国は大きく乱れた」と「魏志倭人伝」に書いてある。』

 

この「魏志倭人伝」の情報から、邪馬台国が九州南部であった可能性が高くなります。 熊襲のウエブ情報です。

 

熊襲(くまそ)は、日本の記紀神話に登場する、現在の九州南部にあった襲国(ソノクニ)に本拠地を構え、ヤマト王権に、抵抗したとされる人々、また地域名自体を表す総称である。 古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。

 

『私、副島隆彦は、どう考えてもこの邪馬台国(倭国)は、北九州の当たりだと考える。 今の福岡市そのものだ。 邪馬台国(倭国)は、紀元前100年から紀元後663年(白村江の戦いで大敗)までは存在しただろう。 

 

朝鮮半島の南の沿岸部一帯にも倭人は住んでいた。 だからこの辺りも倭国だ。 北九州一帯と同じ言葉を喋って同じ文化だったろう。 漁労民(海洋性の民族)だったろう。 だから、倭国というのは、今の釜山を含む南のほうと北九州一帯と、今の山口県のあたりまで含んでいた。

 

 百済という朝鮮半島で一番大きな国があって、倭国は百済の弟分のような国だった。 両国民は言葉が自然に通じたようだ、 2600年を遡ると、日本語と朝鮮語は同一だったようだ。

 

大和とヤマト

前述したとおり、西暦200年代の「邪馬台国は大和(ヤマト)だ」と言って奈良盆地に無理やり決めてしまおう、という動きが文部科学者の文化審議会を牛耳る頑迷な古代史の学者たちから出ているのが今の今の動きだ。

 

中国から、この「大和」(大きな平和)という漢字を700年代にもらってきてそれを「やまと(山門)」という日本の土地の言葉に覆いかぶせた。 そして、漢字の大和と読ませた。

 

北九州あたりにあった邪馬台国(倭国)がいつ滅んで消えてなくなり、いつの間にか奈良盆地が、日本の中心で大和朝廷・ヤマトになったのか。 西暦300年代、400年代か、500年代には『山門・ヤマト(奈良盆地)』が中心だ。

 

西暦400年代の100年間は、今の難波(大阪)や、その南の河内地方に大王(おおきみ)たちが大国をつくっている。 これが仁徳天皇や雄略天皇。 中国側の文献『正史宋書』では『倭の五王』と言われる。

 

西暦663年の『白村江の戦い』のとき、2万8000人の全軍を出して大敗北したとき倭国(倭国連合の中心に卑弥呼の子孫の邪馬台国があったか? 夢のある課題が残った。)は滅んだ。 

 

北九州北部の邪馬台国の旅は、国土地理院地図とグーグルマップで我慢して、ますます、卑弥呼と邪馬台国のこと調べたくなりました。      

(記事投稿日:2023/04/15、 #648)


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