知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城が日本にあった)』『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

2024-08-11 12:01:13 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城 が日本にあった)』

『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

陸繋島・江ノ島には、なぜ城郭は建設されなかったのか、を調べていたら表題のことが解りました。 陸繋島の城郭・城郭跡は世界に3城郭だけだった。 

 

砂州によって大陸や、大きな島と陸続きになった島のことを、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。 

 

フランスの陸繋島『モン・サン・ミッシェル』には城郭と教会があり、英国の『英国版モン・サン・ミッシェル』とも呼ばれる陸繋島『St・マイケル・マウント』にも城郭と教会がありますが、これらは、城郭都市ではありません。

 

『江の島』には、江ノ島神社と江ノ島大師だけで城郭はありません。

 

ウエブ情報には、日本の陸繋島は、二十数件と沢山載っていますが、世界の陸繋島で『リストされている』のは極少なく数件です。

 

日本にも、『陸繋島城郭跡』がありました。 先ずは、ウエブ情報からです。 

 

愛媛県今治市古城島の甘崎城(あまざきじょう)跡です。 別名を、古城、岸の城、荒神城。 7世紀末、唐軍の侵攻に備えて、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海中に位置する島城・海城であり、村上水軍の拠点の一つ。 

 

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から、下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行を徴収する拠点に至る。 この税を生活の糧とした。

 

この城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。 

 

数年前から気になっていた、日本には山城が4-5万余もあるが水城・海城は僅か18城郭で、日本三大水城・海城は,高松城(海抜3m)・今治城(海抜10m)・中津城(海抜6m)です。 

 

四つの島の比較です。      形     面積    海抜

モン・サン・ミッシェル    円形    0.97㎢        80m

 ウエブ情報から引用

 

St・マイケル・マウント       円形    0.23㎢       30m

モン・サン・ミッシェルの四分の一

 ウエブ情報から引用

 

 甘崎城            長円    0.01㎢    19m 

モン・サン・ミッシェルの百分の一

 ウエブ情報から引用

 

江の島              三角形   0.38㎢       60m

モン・サン・ミッシェルの三分の一

 ウエブ情報から引用 

素人の推測と課題です。 『なぜ、江ノ島に、城郭は建設されなかったか』、

江の島は南側が相模トラフに続く地形は深く、遠浅とは言えず、大型軍船が近づけることが理由の一つと思われます。

逆に、モン・サン・ミッシェルも、St・マイケル・マウントも、極端な遠浅の海の中にあり、大型軍船は近づけずない。 

 

肝心の飲料水対応ですが、山城・水城・海城も、条件は同じで湧水では間に合わない時は、大甕や大桶で運び上げるか『大甕に雨水溜める』であった。

 

江の島には、湧水『白龍王黄金浄水』と『一遍成就水』がありますが、湧水量は不明です。 この点では城郭建設には有利です。 モン・サン・ミッシェルとSt・マイケル・マウントには、湧水はありません。

 

江ノ島を舞台の『江ノ島合戦』に興味ある記録がウエブ情報にあります。

 

足利成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 江の島合戦という呼称自体が、成氏が『江の島を陣』としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあった。 

 

この江ノ島の陣で、成氏は敵を撤退させている。 素人の自分の描いた、夢見た、構想は、個人的には海が好きですので、この東・西・南が垂直の断崖の天然の要害、海抜60の江ノ島に本丸と天守を構築して、相模湾越しに見える富士山の夕景を眺める。 本土側に二の丸、三の丸、武家屋敷や寺町を囲む、総構えの城郭とする。 江ノ島と本土は、木橋又は土橋(又は沈下橋)で結び、天下布武ができないものかと錯覚していました。 

 

余談です。 織田信長の安土城は、本格的な石垣の山城で、且つ高層天主閣も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、麓から水運と陸運で引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ引き上げています。 この天主閣から琵琶湖のむこうに沈む夕日を眺めていた、天主閣に居住した、ただ一人の武将です。

 

天下布武には、『江ノ島城郭』では無理なことは、やっとわかり判りました。 国土地理院地図の『傾斜量図』の地形を見て、鎌倉との比較ができました。 空中写真も衛星画像もない時代に、鎌倉の市街要塞の縄張りができたものです。

鎌倉の街を三方(北・東・西)の山と、南の海・由比ガ浜で囲んだ鎌倉市街要塞と、要害山城安土城や、堅城大阪城や、巨大江戸城等と、江ノ島の城郭構想では比較にも、なりませんでした。

  

『陸繋島に城郭建設のこと』は、鎌倉時代以降では無理のようです。

 (記事投稿日:2019/08/14、 最終更新日:2024/08/11、#115)


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