『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城 が日本にあった)』
陸繋島・江ノ島には、なぜ城郭は建設されなかったのか、を調べていたら表題のことが解りました。 陸繋島の城郭・城郭跡は世界に3城郭だけだった。
砂州によって大陸や、大きな島と陸続きになった島のことを、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。
フランスの陸繋島『モン・サン・ミッシェル』には城郭と教会があり、英国の『英国版モン・サン・ミッシェル』とも呼ばれる陸繋島『St・マイケル・マウント』にも城郭と教会がありますが、これらは、城郭都市ではありません。
『江の島』には、江ノ島神社と江ノ島大師だけで城郭はありません。
ウエブ情報には、日本の陸繋島は、二十数件と沢山載っていますが、世界の陸繋島で『リストされている』のは極少なく数件です。
日本にも、『陸繋島城郭跡』がありました。 先ずは、ウエブ情報からです。
愛媛県今治市古城島の甘崎城(あまざきじょう)跡です。 別名を、古城、岸の城、荒神城。 7世紀末、唐軍の侵攻に備えて、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海中に位置する島城・海城であり、村上水軍の拠点の一つ。
13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から、下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行税を徴収する拠点に至る。 この税を生活の糧とした。
この城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。
数年前から気になっていた、日本には山城が4-5万余もあるが水城・海城は僅か18城郭で、日本三大水城・海城は,高松城(海抜3m)・今治城(海抜10m)・中津城(海抜6m)です。
四つの島の比較です。 形 面積 海抜
モン・サン・ミッシェル 円形 0.97㎢ 80m
ウエブ情報から引用
St・マイケル・マウント 円形 0.23㎢ 30m
モン・サン・ミッシェルの四分の一
ウエブ情報から引用
甘崎城 長円 0.01㎢ 19m
モン・サン・ミッシェルの百分の一
ウエブ情報から引用
江の島 三角形 0.38㎢ 60m
モン・サン・ミッシェルの三分の一
ウエブ情報から引用
素人の推測と課題です。 『なぜ、江ノ島に、城郭は建設されなかったか』、
江の島は南側が相模トラフに続く地形は深く、遠浅とは言えず、大型軍船が近づけることが理由の一つと思われます。
逆に、モン・サン・ミッシェルも、St・マイケル・マウントも、極端な遠浅の海の中にあり、大型軍船は近づけずない。
肝心の飲料水対応ですが、山城・水城・海城も、条件は同じで湧水では間に合わない時は、大甕や大桶で運び上げるか『大甕に雨水溜める』であった。
江の島には、湧水『白龍王黄金浄水』と『一遍成就水』がありますが、湧水量は不明です。 この点では城郭建設には有利です。 モン・サン・ミッシェルとSt・マイケル・マウントには、湧水はありません。
江ノ島を舞台の『江ノ島合戦』に興味ある記録がウエブ情報にあります。
足利成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん『江の島を陣』として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 江の島合戦という呼称自体が、成氏が『江の島を陣』としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあった。
この『江ノ島の陣』で、成氏は敵を撤退させている。 素人の自分の描いた、夢見た、構想は、個人的には海が好きですので、この東・西・南が垂直の断崖の天然の要害、『海抜60ⅿ』の江ノ島に本丸と天守を構築して、相模湾越しに見える富士山の夕景を眺める。 本土側に二の丸、三の丸、武家屋敷や寺町を囲む、総構えの城郭とする。 江ノ島と本土は、木橋又は土橋(又は沈下橋)で結び、天下布武ができないものかと錯覚していました。
余談です。 織田信長の安土城は、本格的な石垣の山城で、且つ高層天主閣も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、麓から水運と陸運で引き出して、急勾配の『標高差130m余』の安土山へ引き上げています。 この天主閣から琵琶湖のむこうに沈む夕日を眺めていた、天主閣に居住した、ただ一人の武将です。
天下布武には、『江ノ島城郭』では無理なことは、やっとわかり判りました。 国土地理院地図の『傾斜量図』の地形を見て、鎌倉との比較ができました。 空中写真も衛星画像もない時代に、鎌倉の市街要塞の縄張りができたものです。
鎌倉の街を三方(北・東・西)の山と、南の海・由比ガ浜で囲んだ鎌倉市街要塞と、要害山城安土城や、堅城大阪城や、巨大江戸城等と、江ノ島の城郭構想では比較にも、なりませんでした。
『陸繋島に城郭建設のこと』は、鎌倉時代以降では無理のようです。
(記事投稿日:2019/08/14、 最終更新日:2024/08/11、#115)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます