知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『自然の不思議・樹木のこと 7(どんぐりは1万余年の縄文時代を支えた)』 『「どんぐり背比べ」より『どんぐりの種類比べ』の方が相応しい)』

2022-10-19 23:44:39 | 植物・花

自然の不思議・樹木のこと 7(どんぐりは1万余年の縄文時代を支えた)』

『「どんぐり背比べ」より『どんぐりの種類比べ』の方が相応しい)』

『ヒトのためにも、クマのためにも、縄文人が護ってきた「1万余年続いた縄文人の生活の

   知恵」、「ムラ(村)・ハラ(原)・ノハラ(野原)と「自然混交林」を護っていきたい』。

ウエブ情報から引用

 

先日(2022/09/28)日経新聞文化蘭で、宮国晋一氏の『どんぐりはオンリーワン「同じ種でも木によっては多彩、根気強く観察25年」』を拝見しました。 すぐに思い出したのは二点;

 

  • 縄文人は定住で『採集・狩猟・漁労で農耕(田畑)なし』に対して、古代エジプトは定住で『農耕(田畑)あり』)があった)ことから、1万余年も続いた縄文時代と木の実・どんぐりのこと。 縄文時代の日本は「広葉樹林」が広まり、そこから収穫できるどんぐりは供給量が多く、縄文人の食文化に大いに貢献したとも考えらえています。 

 

  • 熊はドングリを飽食すれば豊富な脂肪が身体に着き、その後、木の穴などで冬眠します。 そして冬眠の間にメスのクマは1~2頭の子グマを産みます。

でも、ナラ類の結実にはほぼ一年ごとに豊作と凶作の周期があります。 またブナは5年またはそれ以上の間隔でしか豊作になりません。ドングリに依存する冬眠前のクマは、凶作の年には窮乏生活を送ることになります。 時には人里に現れるケースが多発しています。 

 

どんぐりは形も大きさもほぼ一様で差がないので、背比べをしても優劣が決められないことから、『どんぐりの背比べ』とは、どれもこれも似たり寄ったりで、抜きん出た者がいないことのたとえです。 『どんぐり』は漢字で『団栗』と書く、『背比べ』は『背競べ』とも書きます。 日本語は詩歌・文学には素晴らしい言語です。

 

宮国晋一氏のエッセイ『どんぐりはオンリーワン「同じ種でも木によっては多彩、根気強く観察25年」』からの抜粋・引用です。 

 

『コロンとした丸い形、細長い形、指の先ほどの小サイズ――。 秋の公園で地面に落ちているどんぐりをじっくり観察してみると、驚くほど多様な形をしている。 一見別の種類に見えて、実は同じ種類の場合も多い。 そんな個性の豊かさに引かれて、25年間収集を続けている。

どんぐりとはブナ科の果実の俗称で、コナラやクヌギなど、国内に22種が存在する。 だが、同じ種でも木ごとにつける実は多様で何百、あるいは何千と種類がある

 

野山に自生する木には、単調で似た形の実がなる場合が目立つ。 一方、公園や緑地に生えている木は、それぞれ全く異なる形状をしたどんぐりをつけることが多いようだ。 なぜ、場所にとってこんな違いが生じるのか。 私は人間が木を選別してきたことが関係していると考えている。』

 

人のためにも、クマのためにも、縄文人が護ってきた『1万余年続いた縄文人の生活の知恵』・『ムラ(村)・ハラ(原)・ノハラ(野原)』と自然混交林を護っていきたいものです。

(記事投稿:2022/10/19、#588)

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『同郷・同世代の千葉県旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子 3』 『詩人・エッセイストの「漱石の硯」と「吾輩は猫である」と』

2022-10-17 10:29:18 | 読書

『同郷・同世代の千葉県旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子 3』

『詩人・エッセイストの「漱石の硯」と「吾輩は猫である」と

 

先ずは、高橋順子氏のプロフィールの再掲です。

経歴

千葉県飯岡町(現旭市)生まれ。東京大学文学部フランス文学科卒業。青土社などの出版社に勤務。1998~2004年、法政大学日本文学科非常勤講師。

1993年10月、作家車谷長吉と結婚。2005年、車谷、新藤涼子と世界一周の船旅をする。2008年2~5月、車谷と四国八十八ヶ所を巡礼する。

受賞歴

  • 1987年 『花まいらせず』で現代詩女流賞
  • 1990年 『幸福な葉っぱ』で現代詩花椿賞
  • 1997年 『時の雨』で読売文学賞
  • 2000年 『貧乏な椅子』で丸山豊記念現代詩賞
  • 2014年 『海へ』で藤村記念歴程賞、三好達治賞
  • 2018年 『夫・車谷長吉』で講談社エッセイ賞

 

先日(2022/10/16)の日経新聞文化欄に、高橋順子氏のエッセイが、タイトルは『漱石の硯』でした。 このエッセイを読み始めた時の、そそっかしい勘違いが、真実であったら大発見と押っ取り刀で、エッセイを読み返し、「吾輩は猫である」をチェックしました。 残念ながら『吾輩は猫である』のお手伝いさん『御三(おさん)』は、高橋順子氏の叔母ではありませんでした。

 

「夏目漱石愛用硯」(復刻版)神奈川近代文学館蔵  ウエブ情報から引用

 

エッセイ『漱石の硯』の抜粋・引用です。

『東京新宿区の漱石山房記念館に、当時94歳だった私の叔母は、所有していた「漱石の硯」を譲り渡した。 漱石のお孫さんの一人の勧めによる。 なぜ叔母がそんな大そうな品を持っていたかというと、この人は長い間、漱石の長男・純一宅に家政婦として住み込んでいたのだが、ある時純一氏が叔母に『これを上げる」と手渡したのである。 漱石の遺品と知って驚いた叔母は「何か添え書きをいただかないと、私がくすねたように思われます。」と』、それで添え書きができたようです。

 

『「牛込区早稲田南町七番地漱石山房跡より掘り出された父生前の愛用の硯 珍しい形をしており、蓮の花の上に蛙が乗っていたのがいつの間にか飛び立って姿が見えなくなって物、記念としてあなたに差し上げたいと思います。」と欠損を詩情に変え、思いやりのある添え書きをくださった。』

 

『戦後、漱石山房があった場所の焼け跡から硯が2つ出土し、大工さんが純一氏に届けてくれたそうだ。 そのうちの1つは神奈川近代文学館に寄贈された。 蛙がいなくなった硯は完全な品とは言えないものなので、文学館には渡さなかった。 叔母は木箱に入れ自室に運んだ。』

 

『叔母に漱石の硯をいただいて、どんな気持ちがしたかと尋ねたことがある。 「重苦しい気持ちだった。 持っていろと言われたから持っていた」と答えた。 主人夫婦を看取り、叔母は78歳で夏目家を去ることになった。』

 

『私の母である千葉飯岡の故郷の姉は「こちへ来なよお」としきりに言ったが、友達も近所の人も「東京へ残ったほうがいい」というので、姪の私が用意したマンションに残った』

 

『硯は引っ越し荷物より一足先に私がカバンに入れ、自宅に運んだ。 引っ越しが完了するまでは、硯は私の部屋に置かれた。』

 

同郷・同世代の千葉県旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子氏と「漱石の硯」と「吾輩は猫である」とが、一瞬の錯覚ですが、かかわりがあったように思えて『ほっこり』としました。

(記事投稿日:2022/10/17、#587)

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『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 4』 『執念の学術書出版 日本植物誌・動物誌が西洋との懸け橋に、』

2022-10-13 22:57:42 | 絵画

『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 4』

『執念の学術書出版 日本植物誌・動物誌が西洋との懸け橋に、』

『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図を』

 

シーボルトは、二度、通算12年余の日本滞在で、三度目の来日を切望していた、真に日本を、日本人を愛した人物でした。

 

1823年 - 来日

1828年 - シーボルト事件

1830年 - オランダに帰国

 

1859年 - オランダ貿易会社顧問として再来日

1864年 - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰国

 

最初の6年間にわたる日本滞在中の仕事で、最も手ごたえを感じていたのが、日本の植物についての調査研究であった。 『私はすでに200種以上の新種を日本において発見いたしました。』 『私には植物を専門とする素晴らしい日本人画家ついていて、すでに120点ほどの新稀種日本植物の写生図を、必要な場合は顕微鏡による分析図を付して仕上げております。』と、母と伯父に書き送った言葉から、着任以前から『日本植物誌』のシーボルトの心踊りが伝わってくるようです。

 

帰国後もオランダ政府から叙勲されたり、オランダ領東インド陸軍の参謀部で、日本関係の事務仕事を任されたりと、日本との接点は消えておりません。 日本研究の第一人者として世間に知られるようになったシーボルトは、ドイツのボン大学から、ヨーロッパ初の日本学教授として招聘されたこともあります。

教授になってしまうと日本に行きにくくなるからか、断っています その後は日本の開国のために動いています。

 

シーボルト宅跡の胸像の周囲にはアジサイの植樹

ウエブ情報から引用

シーボルトが長崎市鳴滝(なるたき)に設けた私塾と居宅の跡で、「シーボルト宅跡」という名称で国の史跡に指定されています。 シーボルトは、長崎に来た翌年、鳴滝にあった家を手に入れ、ここに「鳴滝塾」を開き、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教えています。 ここで学んだ人々は、やがて医者や学者として活躍しました。

 

素晴らしいシーボルトの日本滞在の後日談

シーボルトは長崎の女性・楠本たきとむすばれ、彼女を「オタクサ」と呼んでいました。 やがてシーボルトは、はじめてみる美しい花(アジサイ)に出会い、その花に愛する人の名をとり「ヒドランゲア・オタクサ・HYDRANEGA Otaksa」と名づけ、『日本植物誌』に掲載しました。

 

二人の間には文政10年(1827)、娘・いねが生まれました。 いねは父と同じ医学の道をこころざし、石井宗謙・二宮敬作・ポンペらに医学を学び医師として活躍しました。 長崎や東京で開業し、明治6年(1873)、明治天皇の若宮が誕生するときには、宮内省御用掛となり、出産に立ち会いました。 明治36年(1903)、東京で亡くなりました。

 

ドイツ人・シーボルトですけれど、シーボルトを育んだオランダの歴史に、今は、興味津々です。

(記事投稿日:2020/10/13、#586)

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『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 3』 『日本の植物へ不変の愛着「アジサイの学名に最愛女性の名前を」』

2022-10-13 18:15:06 | 絵画

『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 3』

『日本の植物へ不変の愛着「アジサイの学名に最愛女性の名前を」』

『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図を』

 

独身のシーボルト(27歳、恐れ多い卑近なことですが、自分も昔、独身の27歳で香港に着任で、格別な思いを)が長崎の出島に着任して以来、懇親的に身の回りの世話をした女性がいる。 楠本たき、1823年に初めてシーボルトのもとに出向いたときは『其扇(そのぎ)』という16歳になる長崎・丸山の遊女だった。

 

川原慶賀の『シーボルト』と『オタクサ(たき)』肖像画

ウエブ情報から引用

 外国人女性の出入りを禁じられていた出島では、オランダ商館員は、丸山の遊女を伴侶として抱える慣習があった(所謂身請け)。 シーボルトはドイツの両親に、次のように書き送っています。 『私もオランダの古き習慣に従って、16歳の愛らしい日本娘と契りを結んでおります。 良い娘でとてもヨーロッパ女性と取りかえる気にはなれそうもありません』。 

さらに手紙は続きます。 『私には愛らしい娘がおりますが、彼女の顔には母上様によく似たよくところがいくつか見られます。 この二人のためにいろいろ配慮をつくしてきました。 それは私の義務です。 そして今後もそうするでしょう。』と。  

比較したくなかったのですが、幕末のアメリカ駐日総領事・ハリスの『侍妾』の下田の『唐人お吉』の数奇な運命は、大分違うようですが真実に近いところは次の課題です。 『侍妾(じしょう)、身分の高い人のそばにいて、その身の回りの世話をする女性。そばめ。』

 

アジサイの学名に最愛女性の名前「HYDRANEGA Otaksa」

ウエブ情報から引用

 

シーボルト 日本植物誌: カノコユリ

ウエブ情報から引用

シーボルトが日本から移入した植物の中には、カノコユリの株もあった。 カノコユリは薔薇色の花弁に紫色の斑点がある可憐な花をつける。 初めて生きた状態でヨーロッパに入ったこのユリが、帰国(一回目在日の)後、3年目の1932年、現在のベルギー・ハントの植物園で花を咲かせた。 反響は大きく高値が付いたらしい。 

むしろ、春画でも知られていた川原慶賀ですが(当時、多くの絵師は春画を)、『シーボルトの「カメラ」なった川原慶賀』がシ-ボルト蒐集の動植物の写生図『図鑑』を描いていたことも凄いことです。

(記事投稿日:2020/10/13、#586)

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『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 2』 『悲願の旅で日本探索、長崎の習俗を活写、待望の江戸幕府へ』

2022-10-12 18:54:05 | 絵画

『オランダ商館医博物学者ドイツ人のシーボルトは科学伝授 2』

『悲願の旅で日本探索、長崎の習俗を活写、待望の江戸幕府へ』

『川原慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの動植物の写生図を』

日本到着から約一年後、長崎出島から祖国ドイツの母と伯父あてに、『全体的に見れば、当地日本で満足しています。 というのは、この2年間で、医師として「これまでアジアの国でいかなる医師も受けたことのないほどの尊敬と名誉を日本人の間で博しております。 私の治療はとても名高く、医師としての幸運は当地において私を見捨てません。」』と手紙を書いています。 

長崎でのシーボルトの研究対象は、医学、植物学、動物学といった自然科学のジャンルにとどまらず、日本の地理、歴史、民俗と幅広く関心を向けた。 ライデン国立民族博物館が所蔵するシ-ボルトコレクションには川原慶賀の『精霊流し』もその一つです。

 

川原慶賀の『精霊流し』

ウエブ情報から引用

シーボルトの関心は長崎にとどまらない。 その博物学的調査の最大の好機はと考えたのは、オランダ商館長に随行する江戸参府の旅でした。

 

このために、シーボルトは、1826年の出発に着任前から備えてきた。 日本各地の地理、言語、風俗習慣を調べ、宿泊する先々で渡す土産物や献上品、そして日用品も豪華で珍奇なものも用意した。 銀やガラスの豪華な器、家具、小型ピアノまでも。 これが行く先々で調査を成功させるための秘策。

 

この調査のために、規定の50人に、自分の門弟である医師や蘭学者を加えて。大きなチームを結成していた。 江戸参府の一行は、長崎を2月26日に出発、海路を行くが途上、陸路にも代えて、小倉→下関→大阪→京都→江戸到着は4月10日でした。

 

川原慶賀の『永代橋から江戸の港と町を望む』

ウエブ情報から引用

1928年末のシ-ボルト事件

『1828年9月、シーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかり、それを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景ほか十数名が処分され、景保は獄死した。シーボルトは1829年に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けた。 当時、この事件は間宮林蔵の密告によるものと信じられた。

樺太東岸の資料を求めていた景保にシーボルトが『世界周航記』などを贈り、その代わりに、景保が伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の縮図をシーボルトに贈った。この縮図をシーボルトが国外に持ち出そうとした。』

 

1929年10月、国外追放の決定が下がり、12月30日、シ-ボルトは出島を出港した。

(記事投稿日:2022/10/12、#585)

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