知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『司馬遼太郎氏の「街道をゆく 肥薩のみち」(歴史・地理・人の考察)1』

2024-03-11 10:59:37 | 読書
『司馬遼太郎氏の「街道をゆく 肥薩のみち」(歴史・地理・人の考察)1』
『1971年、作者47歳の時に「週刊朝日」に読み切りに連載を開始、1996年2月の逝去により、43冊目の「濃尾参州記」を最後に絶筆』
『自分には、同氏の小説は「空海の風景』と「峠」が最高。紀行文集「街道をゆく」は、これから読んで残り少ない余生の中で「何ができるか」考えたい』

1984年刊の街道をゆく22巻「南蛮のみち I」で第16回日本文学大賞を受賞。 1994年刊の「台湾紀行」では、台湾問題に対し直截的な意見を述べた。 当時の総統李登輝(司馬作品の愛読者でもある)とも対談し、李が総統就任後初めて台湾の本土化政策に言及した際、司馬は両岸問題に対する中国の姿勢を批判した。 のちに対談の内容が明らかになると、中国及び台湾、日本、アメリカで大きな波紋を巻き起こしたことがありました。

今回は、NHKBS『肥薩のみち』、旅の時期は1972/03/22~03/24の再放送を見ました。 強烈な印象を受けたのは『古代大和朝廷の時代より「熊襲(くまそ)」と「隼人(はやと)」という独立性の高いふたつの民が暮らしていたと記録に残る「肥後」と「薩摩」』という1節でした。 なんと、『この「熊襲(くまそ)」は、邪馬台国の卑弥呼の記録がある「魏志倭人伝」のも載っています』ので、早く、宮崎・熊本の旅を実現したいと思っています。
 
ウエブ情報から引用

このふたつの地は、江戸から幕末、そして明治にかけて対照的な歴史をたどる。 『江戸時代、島津氏のもと独自の気風を養い、明治維新、西南戦争へと突き進んでいった「薩摩」と、それを抑え込む働きを与えられた「肥後」』、この因縁に歴史は凄い、の感を強くしました。

さらに剣について、印象深かったのは『示現流』でした。沖縄空手のルーツは比較的理解しやすかったのですが、薩摩の『示現流』の由来、

『流祖の東郷重位は、元々はタイ捨流を学んでいたが、京都で善吉和尚より天真正自顕流を相伝し、両流派の利点を創意工夫した上で新流派「示現流」を立てた。 技術・系譜的には天真正自顕流の流れにあり、型ではタイ捨流を仮想敵としている。』
タイ捨流
『タイ捨流の「タイ」という言葉には、「体・待・対・太」などの複数の漢字が当てはまる。 「タイ」と仮名で書くのは、「体」とすれば体を捨てるにとどまり、「待」とすれば待つ、を捨てるにとどまり、「対」とすれば対峙を捨てるにとどまり、「太」とすれば自性に至る…といったそれぞれの意味が含まれるからである。  漢字では意味が限定されてしまうが、仮名で表すことで何れの意味にも通じることができる。 「タイ捨」とは、これらのすべての雑念を捨て去るという事、ひとつひとつの言葉にとらわれない自由自在の剣法を意味する。』

『示現流』の特徴は、『一の太刀を疑わず』または『二の太刀要らず』と云われ、髪の毛一本でも早く打ち下ろせ(『雲耀』うんよう)と教えられる。 初太刀から勝負の全てを掛けて斬りつける『先手必勝』の鋭い斬撃が特徴である。 新選組の近藤勇は『薩摩武士の初太刀は避けろ』と言っていたそうです。 但し一般のイメージとは異なり、初太刀からの連続技も伝えられており、初太刀を外された場合に対応する技法も伝授されている。 

稽古には柞(ゆす)の木の枝を適当な長さに切り、時間をかけて充分乾燥させた物を木刀として用い、立木に向かって気合と共に左右激しく斬撃する「立木打ち」など、実戦を主眼に置いた稽古をひたすら反復する事に特徴。 達人ともなれば、立木に打ち下ろすとき煙が出る。

司馬遼太郎も見られた示現流の稽古
片膝を地下手に着くと同時の、凄まじい一撃

ウエブ情報から引用

掛け声は「エイ」であるが、あまりに激しいため「キィエーイ」という叫び声にも似たものとなる。 この掛け声は分派である薬丸自顕流にも受け継がれている。 しかしこの各派共通の反復練習と猿叫は意味を知らぬ者に否定的に見られることもあり、幕末期の薩摩藩主・島津斉彬が薬丸自顕流の稽古を見た際に、「気違い剣術だ」と蔑んだと云われている。 掛け声が「チェスト」とされることもあるが、これは剣豪小説で広まった創作。

やはり『示現流』は奥が深く、これからも、未来永劫の継続に期待して『示現流』の勉強をしていきたいと思いました。
(記事投稿日:2024/03/11、#734)

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『山は美しい 17(昔、山男だったから、冬のアルプス(北・南・中央)へ)』 『今、傘寿には遠い、登りそこなった雪の美ヶ原と、雪の赤城山群』

2024-03-10 12:20:12 | 山・山岳
『山は美しい 17(昔、山男だったから、冬のアルプス(北・南・中央)へ)』
『今、傘寿には遠い、登りそこなった雪の美ヶ原と、雪の赤城山群』

先日(20240307)NHKBSPの『にっぽん百名山、雪山は天然の美術館』を見ました。
日本百名山の41座が見える雪の『美ヶ原』と、赤城山群黒檜山の朝だけにしか見えない華麗な、繊細な『霧氷』に驚嘆しました。

美ヶ原高原全体では、日本百名山のうち41座を見渡すことができます。 日本の3000m峰に至っては、21座のうち農鳥岳を除く20座を見ることができます。美ヶ原(王ヶ頭)の最高峰は、王ヶ鼻2034m。 

昔、『山男』やってましたころは、『2万5千分の1』の地図ばかりを見ておりましたので、山を俯瞰、マクロにみる習慣がありませんでした。 この地図では、一目で、八ヶ岳の北側の美ヶ原が日本アルプス(北・南・中央)の展望台であることが分かります。

日本アルプスの展望台美ヶ原

 ウエブ情報から引用

美ヶ原からの北アルプスのパノラマビュー

ウエブ情報から引用

美ヶ原らしい絶景

ウエブ情報から引用

赤城山群黒檜山を背景に大沼

ウエブ情報から引用

赤城山といえば群馬を代表する名山ですが、日本百名山の一つにも選ばれています。 カルデラ湖である大沼(おの)を中心に、その周囲に外輪山が取り囲みます。 赤城山というピークはなく、これらの外輪山の総称となっています。

昔、お世話になった会社の保養所が湖(沼)畔にありました。 同期入社の泳ぎ達者な猛者(大島の海岸流で、山梨の笛吹川の急流で、それぞれ鍛えた)達と、なぜか山『赤城山』に出かけました。

千葉県九十九里海岸で鍛えた自分が、真っ先にこの沼に入りました。 海水と違って湖沼は怖いので立ち泳ぎで、沈んでみると、2~3mで沼底に達しましたが、40~50cm両足が、沼底に積もった落ち葉に突きささり、恐怖から即座に急浮上した経験を思いだしました。 雪の大沼の風景に真逆の夏の思い出でした。

赤城山群黒檜山の朝の短い時間だけに見える華麗な『霧氷』

ウエブ情報から引用

昔、霧氷は沢山見ましたが、これほどきめ細かな、かき氷のような霧氷は、写真とはいえ、初めて見ました。 沢山の子供たちにも、見て頂きたいと思いました。
(記事投稿日2024/03/10、#733)
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『来た、見た、分かった 7(御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)』 『太陽を撮るのは、いつでも夕景を、今後は改め、朝の風景も狙う』

2024-03-05 10:30:03 | 写真
『来た、見た、分かった 7 御宿の月の沙漠、終日最高の被写体』
『太陽を撮るのは、いつでも夕景を、今後は改め、朝の風景も狙う』
『思い出すのは、童謡「月の沙漠」1923年は、佐々木すぐるが作曲し、柳井 はるみ歌唱でレコード化「月の沙漠記念像」は1990年(初代1969年)完成』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を真似させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた有名な言葉です。 今回は『来た、見た、分かった 7(御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)』です。

二十年も昔のことですが、友人から頂いた定年退職の挨拶状の写真が、この『月の沙漠記念像』の風景でした。 その強烈な印象を忘れずに今日まで覚えていましたが、今日まで十数回、一泊旅行で勝浦の保養所に行っておりましたが、もったいないことに、ここ『月の沙漠記念像』撮影には往かず仕舞いでした。
これからは勝浦に泊まる機会があったら、ぜひ『御宿の月の沙漠、終日最高の被写体)、太陽を撮るのは、いつでも夕景でしたが、今後は改め、朝の風景も狙う』ことを徹底したいと思いました。

月の沙漠記念像にカイト凧が舞う
カイト凧を操縦する方が最高のチャンス数分間与えてくれました。 結果的には2~3分間でしたが、撮影中は、その時間を全く想像できず、夢中になって目まぐるしく回転するカイト凧を撮りました。



20240303撮影  

月の沙漠記念館は1990年7月8日にオープン。 1階は企画展示室と売店、2階に「加藤まさを」展示室です。 展示室には御宿の海岸がモデルとなっている童謡『月の沙漠』をはじめとする加藤まさをのさまざまな作品、遺品が展示されています。

今もなお、歌い継がれている「月の沙漠」
童謡「月の沙漠」は、佐々木すぐるが作曲し、柳井はるみ歌唱でレコード化され、今もなお、多くの歌い手に歌い継がれています。 また、「加藤まさを」は岩和田小学校(2007年3月閉校し御宿小学校と統合)の校歌も作詞・作曲しているそうです。

1階の企画展示室では、企画展やイベントが開催
御宿にゆかりを持つ画家や文人たちの企画展や「おんじゅくまちかどつるし雛めぐり」等のイベントが企画、開催されています。 

月の沙漠記念館の目の前には月の沙漠記念像
月の沙漠記念館の目の前には月の沙漠記念公園があり、そこには月の沙漠記念像もあります。

御宿町観光協会公式サイトより引用

朝焼け


砂紋


夕焼け

このメルヘンティックな砂漠の風景は、十数年間、脳裏にやきつぃていたもので、『感激もひとしお(一入・一塩)』でした。
(記事投稿日:2024/03/05、#732)
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『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』 『圧巻は、遠見岬神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形だ!』

2024-03-04 23:08:13 | 写真
『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』
『圧巻は、遠見岬神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形だ!』

表題に、名言『来た、見た、勝った』(古典ラテン語:Veni, vidi, vici)を真似させて頂きました。 共和制ローマの将軍・政治家のユリウス・カエサルが、ゼラの戦いの勝利を、ローマにいるガイウス・マティウスに知らせた有名な言葉です。 今回は『来た、見た、分かった 6(勝浦のひな祭り・日本文化は凄い)』です。

傘寿プラスが、はじめて見ました凄いスケールの雛さま飾りの、『かつうらビッグひな祭り』ですが、全国から寄贈されたひな人形が勝浦市内に飾られる、ひな祭りシーズンの盛大なイベントです。 かなり想像を超えた難しい寄贈もあるようで、ご苦労も多いと察します。 

勝浦中央商店街をはじめ墨名交差点に約1,000体、覚翁寺(かくおうじ)に約600体など、随所に飾られた沢山のひな人形が町じゅうを春の雰囲気に彩ります。
 
 20240303撮影
なかでも圧巻の光景は、遠見岬(とみさき)神社の石段60段に並ぶ約1,800体のひな人形。 一つひとつは可憐ながら、その数は迫力満点!ここまでたくさんのひな人形を一度に見られる機会は、そうそうないでしょう。 夕暮れ時からはライトアップも行われ、昼とは違った幻想的な雰囲気が楽しめます。

20240303撮影

日本最大級の「享保風雛(きょうほふうびな )」や東西での違いなど、ひな人形文化の奥深さに感銘を受ける展示が勢揃い。 中には「三歌人付き」や「鶴亀雛」など、あまり出回らない貴重なものもあります。 それぞれの家庭で子どもの健やかな成長を見守ってきたひな人形。今は勝浦の春の風物詩として、多くの人々の目を楽しませています。

この度は、維持され続ける日本の文化のすばらしさを再認識しました。
(記事投稿日:2024/03/04、#731)
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