知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『花の世界 6.1(水中花と言えば、歌って・演じた、松坂慶子さん)』―映画『水中花」の主題歌が「愛の水中花」、江戸時代は、酒席の遊びー

2024-08-12 20:44:57 | 

『花の世界 6.1(「水中花」と言えば、歌って・演じた、松坂慶子さん)』

映画『水中花」の主題歌が「愛の水中花」、江戸時代は、酒席の遊び』

水中花は、江戸時代に中国から伝来したもので、水を入れたコップなどに造花を入れて、開かせるもの。 江戸時代、延宝年間に、酒席の遊びとされた。 今回は、不謹慎とは思いつつ、本物のバラを水中に入れてしまいました。 この薄い花びらが水中で、見事に開いています。 やはり、この残酷な仕掛けを、今では反省してます。 

本物のバラの花の水中花です。

 

水中の花ではなく、グラスの外・後方・外のバラの花でしょうと疑われましたが、下の写真で納得頂いた。

このバラは、茨城県の戸建ての庭から、ヨコハマのマンションのベランダにと、移ってきて今年で、15年になります。

  (記事投稿日:2018/05/01、最終更新日:2024/08/12、#009)

 

 

 

 

 

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『カラスの巣は、戸建て・団地型から、メゾネットタイプ・集合型へ』『団地型はサッカーグランドの縁、メゾネット型は公園の正門の近くに』

2024-08-11 15:24:06 | 野鳥

『カラスの巣は、戸建て・団地型から、メゾネットタイプ・集合型へ』

『戸建は、メゾネット型は公園正門のサッカーグランドの縁近くに

子供の頃、見たカラスの巣は、芯止めされた独立した松の木の天辺に、よくありました。 最近、気が付きました。 大型の野鳥は、ヘリポートのように周囲に障害物のない、なにかの木などの天辺に、巣作りでした。 『翼開長』が大きく、当然です。 最近は違っており、木の天辺を寸止めされた松の木や、杉の木はめったにはありませんので写真のようは外敵から巣を守れる枝の間に巣作りするようです。

戸建て・独立型

 

 メゾネットタイプ・集合型

 

 

これらのカラスの巣は、集合型は、公園の正門の近くにメゾネットタイプはサッカーグランドの縁にありました。 ツバメが飼い犬の居る家に、巣をつくると同じ理由だと解かります。 野鳥はいつでも

     (記事投稿日:2018/04/26、最終更新日:2021/02/21、#004)                         

 

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『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城が日本にあった)』『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

2024-08-11 12:01:13 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭 2(陸繋島の城郭は、世界に3城だけ、1城 が日本にあった)』

『陸繋島・江ノ島に寺院・神社はあるが、城郭は建設されなかったか、なぜ?』

陸繋島・江ノ島には、なぜ城郭は建設されなかったのか、を調べていたら表題のことが解りました。 陸繋島の城郭・城郭跡は世界に3城郭だけだった。 

 

砂州によって大陸や、大きな島と陸続きになった島のことを、陸繋島(りくけいとう)と呼ばれています。 

 

フランスの陸繋島『モン・サン・ミッシェル』には城郭と教会があり、英国の『英国版モン・サン・ミッシェル』とも呼ばれる陸繋島『St・マイケル・マウント』にも城郭と教会がありますが、これらは、城郭都市ではありません。

 

『江の島』には、江ノ島神社と江ノ島大師だけで城郭はありません。

 

ウエブ情報には、日本の陸繋島は、二十数件と沢山載っていますが、世界の陸繋島で『リストされている』のは極少なく数件です。

 

日本にも、『陸繋島城郭跡』がありました。 先ずは、ウエブ情報からです。 

 

愛媛県今治市古城島の甘崎城(あまざきじょう)跡です。 別名を、古城、岸の城、荒神城。 7世紀末、唐軍の侵攻に備えて、越智氏によって築かれた日本最古の水軍城とされ、伊予国大三島東端である瀬戸甘崎の海中に位置する島城・海城であり、村上水軍の拠点の一つ。 

 

13世紀の元寇をきっかけとして、海武士の取り締まりから一転、海上交通の取り締まりをする役割を担い経て、南北朝期から戦国期にかけては村上水軍が東から、下って来た船舶を捕捉して積荷を改め、通行を徴収する拠点に至る。 この税を生活の糧とした。

 

この城の最大の特徴として、陸繋島という地理上から潮が引くと島に至るまでの陸路ができ、幾重にも石垣が築かれているが、満潮時には没し、海中縄張りとなった。 

 

数年前から気になっていた、日本には山城が4-5万余もあるが水城・海城は僅か18城郭で、日本三大水城・海城は,高松城(海抜3m)・今治城(海抜10m)・中津城(海抜6m)です。 

 

四つの島の比較です。      形     面積    海抜

モン・サン・ミッシェル    円形    0.97㎢        80m

 ウエブ情報から引用

 

St・マイケル・マウント       円形    0.23㎢       30m

モン・サン・ミッシェルの四分の一

 ウエブ情報から引用

 

 甘崎城            長円    0.01㎢    19m 

モン・サン・ミッシェルの百分の一

 ウエブ情報から引用

 

江の島              三角形   0.38㎢       60m

モン・サン・ミッシェルの三分の一

 ウエブ情報から引用 

素人の推測と課題です。 『なぜ、江ノ島に、城郭は建設されなかったか』、

江の島は南側が相模トラフに続く地形は深く、遠浅とは言えず、大型軍船が近づけることが理由の一つと思われます。

逆に、モン・サン・ミッシェルも、St・マイケル・マウントも、極端な遠浅の海の中にあり、大型軍船は近づけずない。 

 

肝心の飲料水対応ですが、山城・水城・海城も、条件は同じで湧水では間に合わない時は、大甕や大桶で運び上げるか『大甕に雨水溜める』であった。

 

江の島には、湧水『白龍王黄金浄水』と『一遍成就水』がありますが、湧水量は不明です。 この点では城郭建設には有利です。 モン・サン・ミッシェルとSt・マイケル・マウントには、湧水はありません。

 

江ノ島を舞台の『江ノ島合戦』に興味ある記録がウエブ情報にあります。

 

足利成氏は幕府再建がうまくいかなそうだから、鎌倉を出て、江の島から房総方面へ逃げようとした。 あるいはいったん江の島を陣として、鎌倉を実効支配しようとしたのではないか。 江の島合戦という呼称自体が、成氏が『江の島を陣』としたことによるのであり、 江の島で実際の戦闘があったわけではない。 鎌倉御所で戦闘があったわけでもない。 由比ヶ浜、七里ヶ浜、腰越浦で多少の小競り合いがあった。 

 

この江ノ島の陣で、成氏は敵を撤退させている。 素人の自分の描いた、夢見た、構想は、個人的には海が好きですので、この東・西・南が垂直の断崖の天然の要害、海抜60の江ノ島に本丸と天守を構築して、相模湾越しに見える富士山の夕景を眺める。 本土側に二の丸、三の丸、武家屋敷や寺町を囲む、総構えの城郭とする。 江ノ島と本土は、木橋又は土橋(又は沈下橋)で結び、天下布武ができないものかと錯覚していました。 

 

余談です。 織田信長の安土城は、本格的な石垣の山城で、且つ高層天主閣も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、麓から水運と陸運で引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ引き上げています。 この天主閣から琵琶湖のむこうに沈む夕日を眺めていた、天主閣に居住した、ただ一人の武将です。

 

天下布武には、『江ノ島城郭』では無理なことは、やっとわかり判りました。 国土地理院地図の『傾斜量図』の地形を見て、鎌倉との比較ができました。 空中写真も衛星画像もない時代に、鎌倉の市街要塞の縄張りができたものです。

鎌倉の街を三方(北・東・西)の山と、南の海・由比ガ浜で囲んだ鎌倉市街要塞と、要害山城安土城や、堅城大阪城や、巨大江戸城等と、江ノ島の城郭構想では比較にも、なりませんでした。

  

『陸繋島に城郭建設のこと』は、鎌倉時代以降では無理のようです。

 (記事投稿日:2019/08/14、 最終更新日:2024/08/11、#115)

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『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

2024-08-08 16:45:23 | 寺院・仏閣・神社・お社
『平安時代、天皇家の子孫も含む朝廷の武官が地方で成長し、豪族武士団となり、地方豪族間で発生した戦乱が拡大、承平天慶の乱「平将門と藤原純友」対「朝廷」に発展!』

古代から続く日本の歴史、特に、『天皇制』という素晴らしい歴史の中で、『神話と共に成立し、以来二千年近く、一つの国が続いた例は世界のどこにもありません。 これ自体が奇跡といえるほどです。』と百田尚樹氏著の『「日本国紀 上」の序にかえて』にありました。 そんな中で、公家社会は、奈良時代から平安時代にかけて形成され、特に平安時代(794年~1185年)に栄えました。

武士社会は、平安時代末期から始まり、鎌倉時代(1185年~1333年)に本格的に成立しました。その後、室町時代(1336年~1573年)、戦国時代(1467年~1603年)、江戸時代(1603年~1868年)を経て、明治維新(1868年)まで続きました。

その武士社会の始まりは、一般的にはこう紹介されています。 中世の主役は武士で、武士の出現した理由は、律令体制の下、税が払えず口分田を捨て逃亡した人達が、その土地の権力者や貴族に雇われ、新しい田を作ります。 『墾田永年私財法』により新しく耕作した田は、自分の物にして良いことになったからです。

このような方法で権力者や貴族は、各地で私有地を拡大し、これらは荘園と呼ばれるようになりました。 労働力と金さえあれば、荘園はどんどん増やすことが出来ます。 時には、荘園の奪い合いが起こりました。 自らの土地は自らで守るために、貴族が武士となる場合もありますが、専門的職業として武士になる者もいて、荘園を守る警備の役割として雇われることもありました。
以上が、武士が現れてきた過程のようです。 
 
10世紀になると、いよいよ各地で武士が成長し始めます。
初めは荘園を守るためであった武士も、いつしか朝廷や国の役人になって、天皇御所の警備、犯罪の取り締まりなどに当たるようになりました。
 都では、貴族の屋敷を警備する武士もいました。

地方の豪族たちも武士になりましたが、中央では、天皇の子孫も武士として台頭し、活躍したのです。  天皇の血を引く武士団、彼らは特別に源氏と平氏
 と呼ばれます。 源氏平氏の名が全国に響き渡った出来事がりました。

平将門の乱(935~940年)
平氏の始祖、高望王は関東で勢力を造った武士で、元々は関東の役人で勢力を広げ、領土が大きくなり、一族に争いごとが起こります。 高望王の孫、平将門は戦上手で、領民からの評判も良く、他の土地から流民も増えました。
平将門が親族間の抗争に勝利して勢力を拡大。 やがて受領と地方富豪層の間の緊張関係の調停に積極介入するようになり、その拗れから国衙と戦となって、結果的に朝廷への叛乱とみなされるに至った。 将門は関東を制圧して新王と自称し関東に独立勢力圏を打ち立てようとするが、平貞盛、藤原秀郷、藤原為憲ら追討軍の攻撃を受けて、新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた
新王
『桓武天皇の血を引いているものとして、新王を名乗り関東を治めよ』との菅原道真の霊魂からのお告げがあったという伝説があります。

藤原純友の乱(939~931年)
藤原純友は藤原道真の子孫でエリート族、瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていたが、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。 結果として蜂起に至った。 西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて新皇僭称後わずか2ヶ月で滅ぼされた

前九年の役(1051~1062年)
永承6年(1051)から康平5年(1062)にかけて、陸奥の豪族安部頼時とその子貞任・宗任らが起こした反乱を、朝廷が源頼義・義家を派遣して平定させた戦役。 後三年の役とともに源氏が東国に勢力を築くきっかけとなった。

後三年の役(1083~1087年)
永保3~寛治元年(1083~87)に奥羽で起きた戦い。 前九年の役後、奥羽に力を伸ばした清原氏の内紛に陸奥守として赴任した源義家が介入し、藤原清衡を助けて清原家衝・武衝を滅ぼしたもの。 清衡は奥羽の地盤を引き継ぎ、源氏は東国に基盤を築いた。

 ウエブ情報から引用

承平天慶の乱は、平安時代中期のほぼ同時期に起きた、関東での平将門の乱と瀬戸内海での藤原純友の乱の総称である。 一般に承平・天慶の両元号の期間に発生した事からこのように呼称されている。 ただの反乱ではなく日本の律令国家衰退と武士のおこりを象徴したものであった。 「東の将門、西の純友」という言葉も生まれた。 鎮圧には平将門の乱の方に平貞盛が率いる平氏の、藤原純友の乱の方に源経基が率いる源氏の力を借りたので日本の世に源平二氏が進出するきっかけにもなった。

瀬戸内海では、海賊鎮圧の任に当たっていた藤原純友が、同じ目的で地方任官していた者たちと独自の武装勢力を形成して京から赴任する受領たちと対立。結果として蜂起に至った。西国各地を襲撃して朝廷に勲功評価の条件闘争を仕掛け、これを脅かしたが、平将門の乱を収拾して西国に軍事力を集中させた朝廷軍の追討を受けて滅ぼされた。

なお、この反乱は一般に承平・天慶の両元号の期間に発生したことから「承平天慶の乱」と呼称されているが、承平年間における朝廷側の認識ではこの当時の将門・純友の行動は私戦(豪族同士の対立による私的な武力衝突)とその延長としか見られていない。

承平天慶の乱意義
二つの乱は、ほぼ同時期に起きたことから将門と純友が共謀して乱を起こしたと当時では噂され、恐れられた。 これらの乱は発生期の1世代目から3世代目にかけての武士が、乱を起こした側、及び鎮圧側の双方の当事者として深く関わっている。 乱を起こした側としては、治安維持の任につく武芸の家の者としての勲功認定、待遇改善を目指す動きを条件闘争的にエスカレートさせていった結果として叛乱に至ってしまった面を持ち、また鎮圧側も、乱を鎮圧することでやはり自らの勲功認定、待遇改善を図った。 結果として鎮圧側につくことでこれらの目的を達成しようとする者が雪崩的に増加し、叛乱的な条件闘争を図った側を圧倒して乱は終結した。
また、鎌倉時代には源実朝が「将門合戦絵」を描かせたり、神田明神が江戸幕府によって「江戸総鎮守」とされたりするなど、武家政権が将門を東国武家政権の先駆けとして強い親近感を抱いていることも特徴的である。
(記事投稿日:2024/08/08、#763)
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『日本の城郭 1.1(日本の城郭の中で一番人気は、以前は安土城)』

2024-08-06 06:01:54 | 城・城郭・城塞
『日本の城郭 1.1(日本の城郭の中で一番人気は、以前は安土城)』         
『琵琶湖畔の標高199ⅿの山頂に築城された5層6階の「天主閣」としては史上初で、さらに城主信長自身が居住した「天主閣」』

『天守閣』と呼ぶようになったのは近代からだそうです。 安土桃山時代から登場してくるのが『天守』、ふつう天守閣といわれているようですが、安土桃山時代および近世の史料には『天守閣』とは出てこないし、『天守』ないし『天主』で、『天守閣』というようになったのは近代に入ってからです。

永禄10年(1567)年8月、織田信長が斎藤龍興を滅ばしたあと、自分の居城とした岐阜城に『四階御殿』を建てさせていたことは、ルイス・フロイスの『日本史』に書かれており、それが『天主』のはじまりと考える建築史家は多いようです。 清州城も天主の呼称あり。

たしかに、3代将軍足利義満が建立した3層の金閣に対し、足利将軍家に代わって天下に号令しようと考えていた信長が、それを凌駕する4層の建物を城の中に建てさせた可能性はあるのではないでしょうか。
 
この岐阜城の『四階御殿』、すなわち『天主』が、さらに階を足して安土城の『天主』につながったとする見方もあるようです。 足利義昭のために信長が築いた二条城がその1つで、『天主』が存在したことが『元亀二年記』および『兼見卿記』の記述があるようです。

『近江国蒲生郡安土城之』 大阪城天守閣所蔵
  
ウエブ情報から引用

三英傑 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の天守城郭建設時期を比較
 安土城:  天正10年(1579)(史上初の五層六階の天主閣)
 豊臣大阪城:天正13年(1585)
   家康江戸城:慶長12年(1607)
 姫路城:  慶長14年(1609)
 駿府城  :慶長15年(1610)
 
 秀忠江戸城:元和 8年 (1623)
 家光江戸城:寛永13年(1636)
  

同、天守閣(天主閣)の大きさ比較

ウエブ情報から引用

江戸城は寛永15年・1638年に3代将軍徳川家光が建てた江戸城天守になります。 そこで大御所家康の天守ですが、少し遠慮気味に駿府城です。 江戸幕府の体制も確立された時期の家光の江戸城天守は、姫路城や三英傑の安土・大坂・駿府城より10m以上も大きい史上最大の天守です。 しかし江戸城天守はのちの明暦の大火で焼失し、その後再建されていません。

三英傑の天守が大きいのは当然として、それらと互角の大きさを誇る姫路城もスゴイと思います。 姫路城天守は関ケ原合戦の後に姫路に領地をもらった池田輝政という大名が建てました。

姫路城天守が建てられた時期は江戸幕府の支配もまだ盤石ではなく、中国・九州に豊臣秀吉に恩を感じている大名らが大きな領地を持っていました。 それらの大名が大坂の豊臣秀頼と合流するのを防ぐために池田輝政が姫路城を任されました。 軍事戦略上、三英傑に匹敵する城郭の天守が必要だったのでしょうか。

同、城郭の基壇の標高比較
 安土城:  標高 199m、
 豊臣大阪城:標高  31m
 姫路城:  標高  46m
 駿府城:   標高  24m
 江戸城:   標高  28m
標高199mの安土山に織田信長が天正4年(1576年)正月に天下布武構想に燃え着工、3年後に完成(急勾配の安土山、標高差130ⅿに、石材を運び上げた凄さ)。本格的な石垣の山城で、且つ高層天守も我が国、城郭史上初めて。 城内の石垣は、観音寺山(標高433m山麓からの陸運)、長命寺山(長命寺川と西の湖の水運)、長光寺山(陸運)等から引き出して、急勾配の標高差130m余の安土山へ運び上げた。

信長は、岐阜城の天守閣、安土城の『天主閣』に居住した稀有の武将。 一般的には、天守閣は日常生活の居住には使われていない。 天正3年(1975)暮れには、家督を嫡子、信忠に戦国大名の地位を譲り、 自分は天下人になった。
天正10年(1582年)6月2日「本能寺の変」で自刃。享年49歳。
(記事投稿日:2024/08/04、#762)
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