◎難訓・難読の由来について
老舗と書いて〈シニセ〉と読む。かつて、「仕似せる」(商売を続ける)という言葉に由来する「しにせ」という言葉に、「老舗」という漢訳をつけた教養人がいた。いつの間にか、その漢訳が定着したため、誰もがこれを〈シニセ〉と読むようになったものであろう。帷子と書いて〈カタビラ〉と読むのも、同じような事情によるものか。
七代目市川中車の『中車芸話』は、七代目の口述を、歌舞伎研究家の川尻清潭が筆録したものである。七代目が「そこひ」と口述しているところを、川尻は「白内障」と漢字表記し、そこに〈ソコヒ〉というルビを振った。なかなか面白い試みである。これを「そこひ(白内障などの眼病の意)」とやったのでは、文脈が乱れし、興も殺がれる。ここはやはり「白内障」に〈ソコヒ〉のルビでなくてなならない。これは、老舗や帷子といった「漢訳」のバリエーションと位置づけられよう。
さて、この本には、老舗〈シニセ〉、帷子〈カタビラ〉、白内障〈ソコヒ〉に限らず、数多くの「漢訳+ルビ」があらわれる。目に留まったものを列挙してみよう。
父〈チャン〉
挙動〈ソブリ〉
正気〈マトモ〉
悪戯心〈イタヅラゴコロ〉
確乎〈シッカリ〉
故〈セヰ〉
邂逅〈メグリアヒ〉
私〈アッシ〉
賭博〈テナグサミ〉
優待〈モテナシ〉
容姿〈ナリカタチ〉
内密〈ナイショ〉
飲代〈ノミシロ〉
粗雑〈ゾンザイ〉
全然〈マルデ〉
芥〈ゴミ〉
裂〈キレ〉
いずれも、〈 〉内が七代目が口述した言葉で、漢字表記は川尻が筆録にあたって採用した漢字表記(漢訳)である。
このほか、川尻は、歌舞伎の世界に固有の技術的用語ないし隠語に対しても、それにふさわしい漢字表記(漢訳)をおこなっている。
演所〈シドコロ〉
仕科〈コナシ・シグサ〉
祝儀〈ハナ〉
切穴〈スッポン〉
義太夫〈チョボ〉
大小言〈オホカス〉
同書には、上に挙げたほか、次のような表現も出てくる。ためしに、ブログの読者には、これらをルビなしで読んでみていただきたい。
仁がいい
臍の緒切つて
頭から
歴々と
邪気なさ
飛び退る
正解は、順に〈ニンガイイ〉、〈ホゾノヲキッテ〉、〈テンカラ〉、〈アリアリト〉、〈アドケナサ〉、〈トビシサル〉である。かなりの「難問」であることが、実感いただけたことと思う。
これらの言葉は、ルビがついているからこそ「読める」し、ニュアンスも味わえる。しかし、こうした文章が転記されてゆくうちに、ルビが失われてしまったとすればどうなるだろうか。意味は通るかもしれないが、話者の「もとの言葉」は、二度と復元できなくなる可能性が高い。
世に「難訓」、「難読」とされる字や言葉がある。上で挙げたものについて言えば、「演所」、「仕科」、「飛び退る」などは、もしもルビが施されていない場合、確実に難訓・難読とされる言葉になるだろう。こうした例は、難訓・難読が発生する由来について考える際は、いくらか参考になるはずである。
なお、「父」、「正気」などの言葉について言えば、これらは、もしもルビが失われても、難訓・難読とは見なされないだろう。ただし、それらについては、書き手が想定しなかった読みが、「正解」として伝わってゆくことになろう。漢字の「読み」というのは、まことに難しいものである。
今日の名言 2012・6・8
◎役者のいい人は、その衣装を汚さない事が一つの見栄になつてゐるです
七代目市川中車の言葉。『中車芸話』の「女形と衣装」の項に出てくる。「女形さんなんかなどは裾を引擦つた儘で、塵埃だらけの舞台を歩くので、大概は汚れるの方が当り前なのを、それがいい役者になると、心掛け一つで汚さずに済むから不思議です」。いい役者が衣装を汚さないのは、それが「見栄」になっているからだ、というのが七代目の見方である。