礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

血液型論争と長崎医科大学事件

2012-06-29 05:03:24 | 日記

◎血液型論争と長崎医科大学事件

 かつて、浅田一〈ハジメ〉という法医学者がいた(一八八七~一九五二)。長崎医科大学法医学教室の教授であった浅田は、昭和初年に古川竹二という心理学者が唱えた「血液型と気質」相関説を支持していた。医学の世界では、「血液型と気質」相関説の支持者は少数派であった。浅田は、結果的に、同説の支持者であったことがわざわいし、同大学を追われることになった。
 一九三三年(昭和八)、「長崎医科大学事件」と呼ばれることになる事件が浮上した。この事件は、表面的には、学位請求をめぐる贈収賄事件だったが、その背景は複雑であり、決着にいたる経緯は、当時も今も不透明なままである。
 事件の発端は、一九三二年(昭和七)五月、海軍軍医少佐出身の開業医・田上中次が、学位請求論文をまとめ、これを長崎医科大学に提出したことに遡る。この論文は「実験的胃アトニー」と題するもので、その副論文のひとつに「血液型と性質」があった。田上は、かねてから「血液型とホルモン」の研究をしていたが、浅田一が田上のこの研究に興味を抱いたことをキッカケに浅田の門下生となり、一九二九年(昭和四)から浅田の法医学教室に出入りしていた。
 当時、長崎医大は、京大閥の牙城で、その中心に位置していたのは、付属病院長の勝矢信司だった。勝矢は浅田の血液型研究に批判的で、浅田とは対立関係にあった(浅田は東大閥)。勝矢は、田上が論文を提出する以前から、「浅田の手を経た論文は通さない」と放言していたという。
 一九三三年(昭和八)一二月、このままでは、自分の学位請求は通らないとみた田上中次は、勝矢信司教授を相手どって、「職権濫用」の訴訟を起こす。勝矢が学位審査にあたって、高額の報酬を受け取っていたことを把握していたからである。田上は当時、「正義を楯に」、この告訴に及んだと表明している。
 この告訴によって、「血液型」をめぐる学問上の論争、ないしは長崎医大内部の学閥対学閥の抗争は、「博士号」をめぐるスキャンダルに発展することになった。贈賄側として、勝矢信司・赤松宗二・浅田一の三教授が地検の取調べを受けた。赤松・浅田の二人は起訴を免れたが、勝矢は一二月一九日、浦上刑務支所に収容された(二二日、起訴)。一方、浅田一もまた、門下生である田上の告訴によって、学者としての運命を狂わされた。田上は、自分の告訴が、師である浅田を追いつめることになるとは予想していなかったと思うが、結果としては、そういう形になった(以上の記述については、松田薫氏の『[血液型と性格]の社会史』一九九一を参照している)。
 このとき、浅田までが「贈収賄事件」に連座することになったのは、「血液型」をめぐる論争の双方、学閥上の争いの双方を叩くという、高度の「政治力」が働いていたのではないかという気がする。いずれにせよ浅田は、この事件の責任をとって、一九三四年(昭和九)一月に、長崎医科大学教授を依願退官する。同年四月、東京女子医学専門学校教授となり、翌一九三五年には、東京医学専門学校教授を兼務する。
 今日の感覚で言えば、長崎医科大学を辞めても、東京で医学専門学校(医専)の教授になれたので良かったということになるだろうが、おそらくそれは違う。当時の国立と私立の格差、医科大学と医専の格差というものは、おそらく想像を超えるものがあったと思う。浅田一にとって、長崎医科大学法医学教室教授の地位を失ったことは、その後の法医学者としての歩みということを考えたとき、決定的なダメージであったと思う。
 なお、今、詳論することはできないが、この長崎医科大学事件の本質は、大学の教授会自治に対する国家当局の介入ではなかったかと見ている。同じ一九三三年に、京都帝国大学で、教授会自治に対する国家当局の自治介入事件(滝川事件)が起きていることを想起したい。

今日の名言 2012・6・29

◎数分おきにコップで喉頭をしめしながら、ひくい声で講義されていた

 作家の山田風太郎が、恩師である浅田一を回想した言葉。「喉頭」の読みは〈ノド〉であろう。山田風太郎(本名・山田誠也)は、戦中の1944年、困難な受験勉強の末に、東京医科専門学校への入学を果たし、そこで浅田一教授から法医学を学んでいる。『浅田一記念』(浅田美知子、1953)所収の「浅田一先生追悼」より。

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