礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

ワラの揉み音はノックの代り

2012-06-25 05:13:48 | 日記

◎ワラの揉み音はノックの代り

 昨日に続けて、農学博士・小野武夫のエッセイの紹介。出典は、『村の辻を往く』(民友社、一九二六)。
 小野武夫のエッセイの紹介は、これが三回目だが、読者によっては、この話を最も珍しく感じるかもしれない。少なくとも、柳田國男やその門下の民俗学者は、ここに書かれているような「民俗事象」には関心を抱かなかったし、また記録しておこうとも思わなかったであろう。
 文中に、「藁の袴」という言葉があるが、これは、稲藁の節の部分についている表皮のことである。このハカマを取り除くことを、「ワラをすぐる」という(東京・多摩地方では、「ワラをつぐる」と訛ることがある)。いずれにしても、尻をふく「ワラ」とは、一般的に、茎の部分でなく、「ハカマ」の部分を指したことに注意したい。
 また、「荒縄」でこする話も出てくる。一九九〇年代に私は、北海道出身の武術の師範(当時、九〇歳前後)から、一筋の荒縄が低く水平に張ってある便所にはいった思い出話を伺ったことがある。その際、年代・地名などを確認しておかなかったことを遺憾とする。

 冷遇せらるる土の物         農学博士 小野 武夫

 村の百姓が土から生れた物を食つたり、使つたりして居る間〈アイダ〉こそ家の経済も順調に進むが、土の産物が冷やかに扱はるるやうになると、其の〈ソノ〉暮し向きが左前〈ヒダリマエ〉になる。村の土に出来た物の中で、藁〈ワラ〉の手細工品〈テザイクヒン〉が近頃滅り百姓に可愛がられなくなつた事は著しい。以前には小学校の生徒が通学するにも、大概〈タイガイ〉は家の祖父や父の作つた藁草履〈ワラゾウリ〉を穿いて〈ハイテ〉行つたものであるが、此頃では藁草履は余程〈ヨホド〉のことでないと穿かなくなり、其〈ソノ〉代りに店売りの竹の皮草履とかゴム靴とか、極くハイカラな人になると、「ズツク」の靴を穿かせて通はせて居る。是〈コレ〉も其の源〈モト〉を質せば〈タダセバ〉、村の小学校教育の行き過ぎた文化宣伝の祟り〈タタリ〉である。洋館造りの師範学校で西洋臭い学問を教はり、所謂〈イワユル〉師範風の型に嵌め〈ハメ〉られた先生方が、教室の子供の机の下から鼠の子が見えたり、桃割れが覗いたり〈ノゾイタリ〉するのに気を腐らして、そら男生には袴、女生には行燈袴〈アンドンバカマ〉よと、父兄を説いて穿かせたことが始まりで、袴から追々〈オイオイ〉洋服になり、洋服には又靴が重宝とあつて、村に出来た藁細工は段々と片隅の方に押し込められて、南洋産の「ゴム」や印度産の棉〈メン〉製品が村の小路〈コウジ〉に幅を利かするやうになつて来た。小学校の子供が藁草履を用ひぬと同じやうに、村の大人までが、近頃藁の製品に背を向けて居る。以前は村の百姓が野良〈ノラ〉仕事に行く時の履物は、跣足〈ハダシ〉でない限りは大概草履か、角結び〈ツノムスビ〉の足なか草履であつたのであるが、此頃〈コノゴロ〉では「ゴム」裏の紺足袋〈コンタビ〉が用ひられ出して、足の方ばかり見ると、東京の丸ノ内の石畳〈イシダタミ〉の上を走る人力車夫ソツチのけである。
 藁が百姓に嫌はる、今一つの例は落し藁〈オトシワラ〉の話である。落し藁とは尻拭き藁〈シリフキワラ〉のことである。以前は百姓の尻を拭く〈フク〉品草は藁の袴であつた。尤も〈モットモ〉処〈トコロ〉によつては竹の箆〈ヘラ〉で撫でたり、小石で拭いたり、荒縄〈アラナワ〉で擦つたり〈コスッタリ〉する地方もあつたと云ふが、私の見聞の届く限りでは、藁と草の外〈ホカ〉には無い。私達の子供の時には厠〈カワヤ〉の入口に藁を括つて〈ククッテ〉ぶら下げたり、又は崩れた籠〈カゴ〉の中に藁の袴を入れて、其れを使はせたものである。其れとは知らずにふいと厠の前に行つて藁に手が触れると、厠の中でも「がしやがしや」と藁を揉む〈モム〉音がする。其の音を聞いて外の藁持ちが「ははあ誰か中に居るな」と感附いて姑く〈シバラク〉遠慮する。即ち藁の揉み音が厠の内と外との合図で、都会の便所の「ノツク」に代るのである。
 処が此頃では藁の使用が段々減つて、其代りに新聞紙とか、雑誌とかが、どしどし壷の中に投げ込まるる。昔、弘法大師は文字を書いた紙で尻を拭けば眼が潰れる〈ツブレル〉と教へて、文献保存の一端を此〈コノ〉方面にも向けたとのことであるが、今代〈コンダイ〉の若人達〈ワコウドタチ〉は、毎日何千の文字を糞汁〈クソジル〉の中に投じて怪まぬ〈アヤシマヌ〉。此儘〈コノママ〉で行けば、軈て〈ヤガテ〉は田舎の麦畑や陸稲〈オカボ〉の畦〈アゼ〉の間に、東京や大阪あたりの近郊で見るやうに、便所で汲み出された紙切れが、畑一杯に縞〈シマ〉を作り、雨で叩き附けた後の圃場〈ホジョウ〉一体が、紙畑となる日が近いのではあるまいか。
 更に〈サラニ〉又食器の方で云ふと、ずつと前頃までは村の家々では自家用の箸は、大概自分の持山の竹林から竹を切り来り、之を小さく割いて丸く削り、其れを高梁〈コウリャン〉の穗と一緒にして、鍋の中で小一時間〈コイイチジカン〉もぐつぐつ煮ると、立振なあかね色の箸が出来て、之を自家用にも客用にも使つたものであるが、今頃では此竹の丸箸はすつかり村から姿を消しし、其代り〈ソノカワリ〉に漆の塗り箸や、甚だしいのになると紙包みの割り箸までが、農家で使ひ始められた。藁草履や竹の丸箸が百姓に可愛がられぬとて、村の「土の神」が左程に小言を洩す〈モラス〉訳はあるまいと、文化の軟風に心吹かるる先生方は仰有る〈オッシャル〉かも知れないが、藁の草履には浅黄〈アサギ〉の着物が似合ひ、竹の皮草履には袴が、洋殿には靴がよく似あうても、漆塗〈ウルシヌリ〉の箸で芋のゴタ煮を摘む〈ツマム〉には、うつりが悪しく〈アシク〉、洋服を着て足駄を穿くのは、うら恥かしいと思ふ心の働きから、見栄の好い品物が次から次へと調へられて、遂には洋館建〈ヨウカンダテ〉の小学校に、朝な朝な靴の足音勇ましく通ふ子供の親達が、借金の利子の遣り繰りに頸〈クビ〉のまはらぬ明日の天気を何と見るか。

今日の名言 2012・6・25

◎藁の揉み音が厠の内と外との合図で、都会の便所の「ノツク」に代る

 農学博士・小野武夫の言葉。上記のエッセイ「冷遇せらるる土の物」に出てくる。便所に入る前にワラを揉むと、中の人もワラを揉んで応える時代があった。今どき、こういうことを知っている人は少ない。また、こういうことを教えてくれる書物に出会うことも稀である。思わず、誰かに教えたくなる雑学でした。

コメント (1)
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