◎光陰矢よりもはやし
光陰〈クヮウイン〉矢よりもはやく、はや十四才の春にいたり、はつはな〔初花〕のつぼみもほつるる時節、たちゐふるまひいとやさしくあいきやうもこぼるるばかりの娘ざかりなれども、ただいかにせん歯と眉毛。となりきんじよの人々も今はこれを見のがしにせず、ひそかに指さし噂して、文盲連〈モンモウレン〉の口々に、かの娘の眉毛はいづれにも、らい〔癩〕病の筋に相違もあるまじ、あはれむべし玉の顔色も近きうちに形をうしなはん、そのらい病はともかく、かの歯の色もあやしむべきなり。あの家にはいかなる前世の宿業〈シュクガウ〉ありてかかる稀代〈キタイ〉のかたわものを生みしや。親は代々たどん商売、黒いたどんを高く売り、白い飯を食ひしむくひ〔報〕か。さなくばここにまた説あり。あの親たちは、かねもちなれどもきんじよの人が借金の断りにゆきしとき、いつもふくれつらして白い歯を見せたることなき、その因果にて黒い歯の娘を生みしならんなどとて、出放題〈デハウダイ〉にあざけり笑ふもあり。また洋学先生の説に、眉毛のうるはしくして歯の白きは、婦人のく面色〈メンショク〉をかざるため、造物主〈ザウブツシュ〉の特に意をもちひしものなり。ことに眉毛はおもて〔面〕のかざりのみならず光線の過劇〈カゲキ〉を防ぐための要具なり。人に眉毛なきときは、大陽〈タイヤウ〉光線を上よりじき〔直〕に目に受け、眼病の源因〈ゲンイン〉となること多し。ゆゑに世界中に熱帯諸国、日光のはげしき土地の人は眉毛濃く寒帯に近き地の住人は眉毛うすし。かくまで造物主の深き趣意ある眉毛なるに、うまれながらそのあとかた〔痕跡〕もなきとは、天に見はなされたる罪人〈ザイニン〉といふべしと。親たちはこの説を聞くにつけても、一段のかなしみをまし、玉とも花ともたとへんかたなき、ただひとりの娘はや年ごろにも及びたるに、この風情〈フゼイ〉にては、とても縁談のでくべきにもあらず、医しやをたのみ、みかみほとけをいのり、この娘の歯を白くし眉毛をはやす法〈ハフ〉もあらば、わが身代〈シンダイ〉をつぶすはおろか、両親の命にかへてもはばかることなしとて、手をつくし術〈ジュツ〉をきはむれども、さらにそのかい〔甲斐〕あることなし。
三段落からなる全文のうち、二番目の段落である。再構成の手法は、昨日と同じ。
こうした作業をやってみると、あらためて、「振りがな」の重要性に気づく。この時期の福沢の文章においては、振りがなの部分こそが「本文」という感を、さらに強くした。
この段落に関しては、まず、「光陰矢よりもはやく」という表現に注目したい。言うまでもなくこれは、「光陰矢の如し」という成句の変形である。福沢諭吉は、このように、既成の成句や諺を変形して使う癖があった。『福翁自伝』などには、そうした例が散見されるが、ここでは立ち入らない。
また、「借金の断り」という言葉がやや理解しにくい。「断る」には「予告する」という意味があることから、ここで「借金の断り」とあるのは、「借金の相談」といった意味かと思われる。
明日は、最後の第三段落。
6月12日に関わりがある映画
◎『カサブランカ』(1942、アメリカ)
映画『カサブランカ』には、主人公のリックがパリを脱出した時を回想するシーンがある。激しい雨の中、恋人イルザを待つリック。しかし、列車が出発する時刻になっても、イルザが姿を見せない。黒人のサムが、イルザのメモを持ってやってくる。メモを投げ捨てて、サムとともに列車に乗り込むリック。
さて、ストートリーの上では、リックとサムがパリを脱出したのは、1940年の6月12日である。この日、ゲシュタポの広報車によって「明日」のパリ入城が予告されたため、その日のうちにパリを離れているからである。ドイツ軍のパリ無血入城は、1940年の6月13日のことであった。
今日の名言 2012・6・12
◎歯を矯正してたことは知ってるよ
映画『カサブランカ』で、主人公のリック(ハンフリー・ボガード)が恋人イルザ(イングリット・バークマン)に向かって言うセリフ。リックとイルザは、一緒にパリを脱出することを約束する。そのときイルザがつぶやく。「不思議ね、私たちって、お互いのことを何も知らないわ」。それに対して、リックがすぐに返した言葉。まだ、この映画を見たことがない方は、ぜひ一度、この苦いユーモアを味わっていただきたい。