礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

小野武夫博士の糞尿随筆

2012-06-22 05:19:27 | 日記

◎小野武夫博士の糞尿随筆

 小野武夫といえば、『日本村落史考』(刀江書院、一九二六)などの著作で知られる、農民史・農政史の大家である。
 私は以前から、この人の『日本農民史語彙』(改造社、一九二六)を愛読書としており、ときどき書架から出しては拾い読みをしている。これは典型的な「読める辞書」だと思う。
 小野武夫は、なかなかの文章家である。そのことに気づいたのは、つい最近のことで、『村の辻を往く』(民友社、一九二六=大正一五)というエッセイ集を手にしたときのことであった。
 この本に収められているエッセイは、どれも読みやすく、興味深い。その「時代」の人々の「心意」をよく掬い上げており、その意味で「史料」としての価値に富んでいる。
 以下、このコラムでは、三つほどのエッセイを紹介してみたいと思う。
 最初に紹介したいのは、「町の便」。比較的短いものである。
 初出の年月は不明だが、大正後期であることは、たぶん間違いない。文中、名古屋市の「人糞尿酌取会社」のことが出てくるが、これについて関心を持たれた方は、拙編著『厠と排泄の民俗学』を参照されたい。
 同じく文中に、「私の寓居あたり」という言葉がある。大正後期における小野の住所は、ハッキリしないが、あるいは東京市外小金井町ではなかったか(一九三九年の住所は同町)。
 さらに、老婆心から注記しておけば、文中にある「壷」とは、いわゆる「便壷」〈ベンツボ〉のことである。

 町の便        農学博士 小野 武夫

 便〈ベン〉と云つても町人の大便と小便の話である。曾て〈カツテ〉独逸〈ドイツ〉細菌学者コツホ博士が日本に来遊した時、東京の見物を終へて日光に赴く途中、汽車の窓から武蔵野の百姓が、黄金の汁を畑の野菜に注いで居るのを見て気をくさし、其れきり日本の蔬菜〈ソサイ〉を口にしなかつたと伝へ聞いて居るが、成る程〈ナルホド〉黴菌〈バイキン〉の養液にも等しい人糞尿で栽培した日本の野菜は、世界細菌学の泰斗〈タイト〉の目から見れば危険千萬〈センバン〉なものに違ひないが、何干年の昔から糞尿で作つた物で生きて来た日本入に取つては、左程〈サホド〉に之〈コレ〉を危険に思はぬばかりか、或る肥料学の先生などは、其教科書の中に人糞尿の科学的成分の称賛は愚か〈オロカ〉、其の臭気を以て天来の佳香〈カコウ〉かのやうに讃美して居る程であるから、人糞尿は日本の百姓に取つては捨てようにも捨てられぬ宝である。尤〈モット〉も同じ糞尿の中でも、自家で生産した便と他人が産んだのとでは、之を汲み扱ふ気持が著しく異るのである。一口に言へば自分の便よりも他人の便の方がきたなく感ぜらるるのである。然る〈シカル〉にも拘らず、都会や町の近傍〈キンボウ〉の百姓が、此の汚い〈キタナイ〉他人の便を酌〈クミ〉取つて肥料に使用するのは、値段の安いと云ふとも一〈ヒトツ〉の理由ではあらうが、其の効能の顕著なのにほれ込んだ結果に外〈ホカ〉ならぬ。以前には何処〈ドコ〉の町でも下肥〈シモゴエ〉一年分百姓に酌み取らせると、百姓の方から其の代償として餅米四斗〈ヨント〉とか五斗とか、又は車や馬を牽〈ヒ〉いて来る度毎〈タビゴト〉に、野菜の二三把〈ニサンバ〉も土産〈ミヤゲ〉に置いて行つたものであるが、近頃は百姓の方の鼻息が荒くなつたせいか、餅米や野菜などの土産物は愚か、前とはあべこべに町家の方から酌取り賃を出さねば、何日経て〈タッテ〉も酌み手がないと云ふ程になつて来た。尤も東京ではずつと以前から、日本橋や京橋の如き郊外から距〈ヘダタ〉つた中心地では、多少づつ酌取賃を払うて居たけれども、山ノ手の方では無代無償で酌み取つて居たものである。然るに近頃では偏僻〈ヘンピ〉な郊外でも近所の百姓が唯〈タダ〉では酌み取らずに、相当の酌み取り賃を取つて居る。私の寓居あたりでも壷一個に付〈クキ〉毎月五十銭、二壷では一円づつの汲賃〈クミチン〉を仕払つて居る。名古屋市に数年前迄人糞尿酌取会社があり、百姓の方から代価を徴収して会社の経済を維持して居つた〈オッタ〉が、近頃になつて会社の肥料を百姓の方で買はなくなつた為に右の会社は解散し、今では近郊の百姓は無料で以て酌み取りつつあるとの話は、又一段と市街地の糞尿に対する田舎〈イナカ〉の人の腰の強さを語るものである。
 横井博士であつたか、町の者と村の者とが戦争をして、町の者を閉口させる唯一の戦術は、百姓の方で人糞尿を汲んでやらずに、町人を糞攻めにすることでであると言はれたことがあるが、今の分で進めば、段々百姓の鼻息が荒くなつて、詰り〈ツマリ〉は町人は百姓に対し、税金以上の貢ぎ〈ミツギ〉をしなければ、黄金の汁が床下に泌み出す不快に陥るかも知れぬ。「オアイヤ」〔汚穢屋〕と馬鹿にせらるる百姓でも、便の問題にかけては、町人に対しては「タイラント」〔暴君〕たるを得る経済的特質を享有してゐる。村の者が町人を攻め立つる道具としては、購買組合を設けて、町人を干乾し〈ヒボシ〉にする計略も左〈サ〉ることながら、便を以て戦ふのも亦〈マタ〉一つの軍法であらう。近頃盛んな小作争議の鉾尖き〈ホコサキ〉が、いつか町の旦那方に向けられはせぬかと心配して置いて、強ち〈アナガチ〉取り越し苦労ではなかろうぢやないか。

今日の名言 2012・6・22

◎同じ糞尿の中でも、自家で生産した便と他人が産んだのとでは、これを汲み扱う気持が著しく異なる

 農学博士・小野武夫の言葉。上記のエッセイ「町の便」に出てくる。話が下卑〈ゲビ〉てしまったことはお詫びしなければならないが、これは、ひところの農民の心意を紹介した貴重な証言である。なお、「糞尿の中」の「中」の読みは、「ナカ」ではなく「ウチ」ではないか。

コメント (1)
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