◎戦中の「移動演劇」と当初における参加劇団
日本演劇協会編纂『演劇年鑑 昭和十八年版』(東宝書店、一九四三)の第一部「記録」は、「移動演劇」の活動について、七ページ分を割いている。本日は、これを紹介してみたい。ただし、本日紹介するのは、最初の二ページ分。
移動演劇 佐久間茂高
一
昭和十八年二月八日付をもつて、日本移動演劇連盟は、政府から、社団法人としての認可を得た。それまでの活動は、昭和十六年六月、連盟の結成以来一年七ケ月の時を経てゐる。それで、昭和十七年度の概況を解説するまへに、それ以前の約六ケ月程の状況を一括して述べておきたい。
発生の径路からいふと、各興行会社や一部有志の人々に依り、戦地、銃後、病院への慰問等のことから出発して、移動演芸演劇の活発な展開の機運が促進され、それらの組織された移動劇団に、正しい理念と、実践的な統一を持つ指導、育成の機関をおく必要が痛感されて、情報局、大政翼賛会の斡旋により、毎日新聞社(当時大毎、東日両社)の誠意ある協力を得て、日本移動演劇連盟の結成が実現した。以前から考へられ、早くから一部にはすでに正しく、その唱導の声がたてられてゐた国民文化運動としての移動演劇はそれによつて、日本の移動演劇運動としての旗幟〈キシ〉を、はつきりと打ちたてたものと見ることが出来る。さうして、決戦態勢下に於ける、増産に、生産力の拡充に従事する農山漁村の、或は工場鉱山等の多くの人々に、健全な娯楽の提供に依る慰安、乃至国策遂行に関する啓発宣伝、文化的教養の向上といふ役目をもあはせての、組織的な活動がはじめられたのである。
昭和十六年六月九日、大政翼賛会大会議室で発会式が挙行されてから、昭和十七年二月末日迄の加盟劇団並に参加劇団その他の状況は左の如くであつた。(順序不同)
松竹国民移動劇団第一班、松竹国民移動劇団第二班、関西松竹移動劇団、東宝移動文化隊、東宝古川緑波班、宝塚歌劇舞踊奉仕隊、吉本移動演劇隊、吉本移動演芸隊、籠寅移動演劇隊、くろがね隊、瑞穂劇団、劇団新生新派、市村羽左衛門一座、市川猿之助一座、井上演劇道場、前進座、文学座、藤蔭舞踊隊、千草会舞踊奉公隊。
主催団体(順序不同)
軍人援護会、大日本産業報国会、海洋文化協会、産業組合、司法省、大政翼賛会、台湾総督府、その他。
移動地方(順序不同)
茨城県、千葉県、神奈川県、秋田県、新潟県、東京府下、福島県、栃木県、愛知県、山形県、福岡県、佐賀県、群馬県、岐阜県、山口県、兵庫県、静岡県、広島県、青森県、北海道、台湾。【以下は明日】
今日のクイズ 2013・5・27
◎大政翼賛会の本部があったのは、次のうちどれでしょう。
1 銀座 2 丸の内 3 九段 4 築地 5 その他
今日の名言 2013・5・27
◎道はついた
久保田万太郎の言葉。『演劇年鑑 昭和十八年版』(東宝書店、1943)の「序文」より。当時、日本演劇協会の委員長で、かつ『演劇年鑑』の編輯委員であった久保田万太郎は、この『演劇年鑑』が発刊されたことで、日本演劇協会の「道」がついたと喜んでいる。