◎学ぶのも困難、読むのも困難な漢熟字
ここ数日、原敬が、大阪毎日新聞の記者時代に発表した「漢字減少論」(一九〇〇)を紹介している。出典は、改造社の現代日本文学全集『新聞文学集』(一九三一)。本日紹介するのは、「漢字の使用」という項の後半である。
たとへば往時の公用文又は現在の文章が維新以後に至りて更らに〈サラニ〉変体となつたのである。尤も一時は漢文をそのまゝ僅かに仮名を交へた〈マジエタ〉だけで使用することの流行したこともあつたが、それは一時のことに止つて〈トドマッテ〉、漢字の使用はますます乱れ、加ふるに翻訳の流行して以来、漢字の使用は一層乱雑を極めて居る。古〈イニシエ〉よりありもせぬ熟字を使用して怪しまないばかりでない、その熟字は使用する人の意見次第で毎日製造すると云ふ有様である。たゞでさへ困難なる漢字がかういふ情況であるからますます以て了解するに困難なる次第となり、これを学ぶ者も困難すれば、これを読む者も困難する、斯様なる状況は即ち、今日の実況である。
漢字はいふまでもなく支那字である。支那字は現に清国に於て使用せられてをる。シカシ日本に伝来して日本に使用せられている漢字は、その形状こそ同一なれども支那に於ては古文に属し、今日清国に使用せられてをる文字ではない。この古文は清国人にても特別に学問しなければ了解することが出来ない、いはゞ死語である。恰も〈アタカモ〉欧洲に於けるラテン語の如きものである。ラテン語は欧洲に於ても一時は一般の公文に使用せられ、条約にしても、憲法その他の法文にしても、皆なラテン語を以て記載せられたものであるが、その使用は漸次に衰へ、今日に至りてはラテン系統の言語を使用してをる国でも、学者の学問上使用する場合でなければ、ラテン語そのものを直に使用することはない。併し日本に於ては、そのラテン語同様の漢字を普通の言語にも文章にも使用してをる。而してその使用法は日々変化し、ますます乱雑を極むる次察であるが、さりとて遽に〈ニワカニ〉この漢語混用の文章を全廃することは出来ない、強ひてこれを全廃せんとすれば殆んど現に使用する日本語を全廃すると同様の結果になる。故にヨシ漢字を全廃したりとて、漢字混用の言語文章は依然としてその系統を存在するに相違ないが、もしも何十年の後にか、欧州に於てラテン系統の文章を使用しながら、ラテン語を普通に使用せざるが如く、漢字混用の言語文章を使用しながら、ラテン語を普通に使用せざるが如く、漢字混用の言語文章を使用しながら、漢字を普通に使用しないやうな結果を得る〈ウル〉ならば、社会に与ふる便利は実に量るべからざる次第である。
文中、「ラテン語そのものを直に使用することはない」という箇所があり、「直」には「たゞち」というルビが振られていた。この場合の、「ただちに使用する」は、「じかに使用する」(直接使用する)という意味であろう。ということは、講演で原敬は、「じかに(ぢかに)使用する」と言った可能性があるが、もちろん推測にとどまる。
今日の名言 2013・5・14
◎翻訳の流行して以来、漢字の使用は一層乱雑を極めて居る
原敬の言葉。「漢字減少論」(1900)より。欧州の文献の翻訳にともなって、漢字による「熟字」が新造されてきたことを指している。上記コラム参照。