◎札幌の開墾地で殺害されたお雇い清国人・遅相臣
昨年末、山本紘照〈ヒロテル〉著『北門開拓とアメリカ文化』(文化書院、一九四六)という本を数百円で購入した。その四二ページ以下に、「雇外国人職員表」という一覧表がある。開拓顧問のホラシ・ケプロン(Horace Capron)をはじめとして、全部で七六名の外国人の名前が挙げられているが、その最後の一三名は、「清国人」である。その一三名の職名は、「農夫頭」が一名(梁維升)、「農夫」が九名、「鞣皮工」が二名、「通弁兼清国人取締」が一名(黄宗祐)となっている。いずれにしても、その当時の「お雇い外国人」には、清国人も含まれていたわけである。
ところで、その清国人「農夫」の筆頭に、遅相臣という名前がある。「遅」というのは、いかにも珍しい姓だと思いながら、インターネットで「遅相臣」を検索してみたところ、『開拓史裁録』という文書綴の中に、たしかにこの名前があった。
驚いたことに、この遅相臣は、一八七八年(明治一一)九月二八日に、札幌で殺害されていた。『開拓史裁録』に、その殺害事件の報告という形で記録文書が残っており、そこに、遅相臣という名前が記録されていたのである。
その記録文書は、インターネット上では、「雇清国人遅相臣外一名、変死ノ件」、実際に画像を見てみると、「乙第九拾八号 雇清国人変死ノ義上申」と書かれている。
一部、判読できない文字もあったが、ほぼ次のような内容のであった。――去る明治九年〔一八七六〕に当使〔開拓使〕へ雇い入れた清国人・遅相臣が、本年〔一八七八〕九月二八日午後八時過ぎ、石狩国札幌郡丘珠〈オカダマ〉村開墾地の住宅で変死している旨の届出があり、主任官吏と医員が出張して検査したところ、左のアゴから右のクビにかけて切られていたので、その原由を取り調べたところ、同国人で同居の何進業というものと一時争論となり、その結果殺害されたことが判明したので、何進業の足どりを捜索したところ、自家の井戸で溺死しているという村吏からの届出があった云々。
この文書の日付は「明治十一年十一月七日」で、発したのは、「開拓権〈ゴンノ〉大書記官安田定則」、宛先は、「太政大臣三条実美殿」となっている。
なお、加害者と見られる「何進業」の名前は、先ほどの雇外国人職員表には見あたらなかった。しかし、何正点および何正義という二名の名前はある(ともに農夫)。何進業の本名は、何正点あるいは何正義のいずれかだったのではないだろうか。
また、「何進業」の死因は溺死ということになっている。これは「自殺」したと捉えるのが穏当だが、「農夫頭」梁維升あたりの判断によって、当局の捜査がはいる前に、内部で「処分」された可能性も否定できないと思う。