◎清水幾太郎、編集者に十数回ムダ足を運ばせる
年末に、古本屋で、長尾和郎〈カズオ〉という編集者が書いた『戦争屋』(妙義出版、一九五五)という本を買った。よく見てみると、今から四〇年ほど前に、一度、読んだことがある本だった。
その中に、「清水幾太郎と三木清のこと」という文章がある。改めて読んで見ると、これが、実に興味深い文章であった。本日は、その前半の清水幾太郎〈イクタロウ〉について論じている部分を紹介しよう。なお、当時、長尾和郎は、法政大学の学生で、雑誌『日本評論』で校正のアルバイトをしていた。かつ、学内誌の編集者でもあった。「政経科の研究部長」という肩書を持っていたようだが、その実体は不詳。
清水幾太郎と三木清のこと
昭和十四年〔一九三九〕という年は、私たちの学生にとっては忘れえぬ年であった。
その年の四月にはノモンハン事件がおこり、七月には平沼〔騏一郎〕内閣が欧州情勢を「複雑怪奇」と形容して退陣し、八月にはあの独ソ不可侵条約が締結され、九月には英仏が最後まで粘りに粘ばって平和的解決へのあらゆる手段をつくしたが、ついにドイツヘの宣戦布告となった。戦火はいまや中欧の野をおおい、さらにバルカン半島に延焼するにいたったのである。過ぐる第一次世界大戦から二十五年と三十日目、第二次世界大戦の火ぶたは切っておろされたのである。そしてまた、その年の三月には大学の軍事教練が必修科目となったからだ。
学園の風潮も右へ右へと傾き、軍国主義の波は、私たちを戦争と対決させるのであった。いかに生くべきか、この厳粛たる問題が私たちの上においかぶさってくるのであった。盛り場の“学生狩り”のはじまったのもその年で、学生の間に坐禅が戦後のマンボのごとくはやりだしたのも、みな戦争の影響であった。
私が学内雑誌「政経研究」の編集にあたったのは、こうした環境のうちでであった。私に清水幾太郎との対談をすすめたのは、日本評論のフクちゃんであった。
私は「現代学生はいかに生きる」の課題をもって、牛込市ケ谷の清水幾太郎を訪ねたのは六月のある日だった。初対面ではあったが、清水は私を二階の書斎に招き、しずかに私のいい分をきいてくれた。後日の対談を約してそこを辞したのは、それから二時間後であった。執筆時間をさいてくれたのであろう。私は心から清水幾太郎に感謝し、対談日の質問を刻明にメモするのであった。
約束の日に、私は速記者をつれて清水を訪ねた。玄関に立った清水夫人は、急用のために来週にしてくれとのことで、私はその指定された日にまた訪ねると、二日後との話であった。私の心はくじけることを知らなかった。その日にまた訪ねると、こんどは来週にしてほしいとの申し渡しであった。こんな調子で清水を訪ねること十数回におよんだが、とうとう清水との対談は実現しなかった。私とともに十数回ムダ足した速記者は、私以上に憤慨し、“この偽善者め”と吐き捨てるようにいうのであった。【以下は明日】