◎「平和屋」としての清水幾太郎
長尾和郎は、その著書『戦争屋』(妙義出版、一九五五)において、清水幾太郎と三木清について、何度も語っている。「清水幾太郎と三木清のこと」という文章は、すでに紹介したが、本日は、「平和屋の群像」という文章を紹介してみたい。
平和屋の群像
【前略】三木清も戦争協力者だったという、この厳粛な現実はごまかしきれまい。しかし、なぜ岩波新書の「昭和史」の著者は、三木清をあの近衛のつくった昭和研究会のメンバーからのぞいてあるのか。本多顕彰〈アキラ〉の「指導者」〔カッパブックス〕はただ一行ではあるが、三木は近衛文麿のブレーン・トラストの」一人でもあったとかいているのに、岩波版の昭利史はわざと三木清の名をけずっているのはどうしたことなのか。
かつて清水幾太郎は、京都学派の高山岩男の学習院の教授就任に反対して、高山は大東亜共栄圏の思想的裏づけを行い、積極的に軍の侵路戦争遂行に協力した。追放がとけても道義的責任の上から学習院教授には不適当であるといって、学習院から追ぱらった。いわゆる京都学派の高山や高坂正顕〈コウサカ・マサアキ〉が海軍の顧問だというなら、三木も近衛の顧問どころか、あの東亜協同論の思想的指導者であったわけだ。
いまの青年は、戦前の三木清にたいして抱いていた憧憬を清水幾太郎に抱いているというが、三木清は戦争中に平和主義の旗はふらなかったし、軍に圧迫されながらも戦争の理論的合理化をはかり、若い知識人の憧憬の的となった。敗戦の色濃くなったころには、自由な執筆もできず南方戦線にかりたてられ、とかくのウワサをつくったが、あの戦争のまっ最中に共産党の高倉テルをかくまい、かつ旅費をあたえる友情をもっていた。共産党員をかくまうという危険をおかしたのである。そして非業の獄死となった。獄中にあって、私に差入れしてくれるのは、義兄の東畑精一ただ一人だともらし、その最後はあまりにも悲劇的であった。
清水幾太郎はいったいどうか。戦争中は戦争を謳歌し、かつ言論の統制を叫び、敗戦直後まで読売新聞の論説委員として活発な筆をふるい、戦後はまず白日書院をしゃぶりつくし、河出書房をかじり、新円切換えに乗じてあるヤミ成金をつかんで、二十世紀研究所をでっちあげた。これをユネスコ支部に売込みを図ったが失敗、とどのつまりが岩波書店となった。岩波書店では三木清のあとをついだのであるが、この清水は三木の葬式にはやっと焼香できた関係であった。この清水が三木の後継者のごとく青年の血をたぎらしているのだから皮肉である。
戦後の清水は、再軍備反対の平和論者として進歩的知識人の教祖的存在におさまっているが、かつてはアメリカ実証哲学を背景にして戦争賛美し、いまではその平和論でアメリカを向うに回して反米闘争のチャンピオンになっている。もっとも清水の平和運動には、岩波書店という有力なうしろだてがあることは忘れてはならない。三木の昭和研究会を背景にしての活動とはちがい、平和運動は日本一のすばらしいスポンサーをもっていることである。【後略】
長尾が一九五五年(昭和三〇)に、このような文章を発表したとき、清水は、左派のオピオンリーダーとして、飛ぶ鳥を落とす勢いであった。学者・思想家・ジャーナリストとしての清水の信用は、長尾のこの文章によって揺らぐようなことはなかったと思う。しかし、一九七〇年代にはいって、清水がにわかに右旋廻を始めたとき、この長尾の指摘は、意味を持つことになった。
一昨日のコラムで、最初に『戦争屋』を読んだのは、四〇年ほど前だと書いたが、よく考えてみると、もっと前だったと思う。なぜなら、一九七〇年代にはいって(正確には一九七四年一一月以降)、清水が右旋回を始めたとき、「ああやはり」と思った記憶があるからである。いずれにせよ私は、長尾和郎の『戦争屋』を読んだとき以来、清水幾太郎という人間を信用したことがない。
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