◎マックス・ウェーバーのアメリカ体験(1904)
元旦のコラムで、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を取りあげた。ウェーバーは、同書の最後のほうで、ジョン・ウェスレーの文章を紹介しているが、この文章は、同書においては、もっと前のほうで紹介されるべきだったということを述べた。こうした複雑難解な本に立ち向かっている読者にとっては、早い段階で筆者の「問題意識」を把握しておくことが、「読解」の手助けになる。ウェスレーの文章は、非常に具体的かつ示唆的である。そこに示されている「問題意識」は、ウェーバーの「問題意識」と重なるものがある。そういう意味で、この文章は、もっと前のほうで紹介しておいてほしかったと思ったのである。
同じようなことは、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(一九〇五)と『プロテスタンティズムの教派と資本主義の精神』(一九二〇)という、ウェーバーのふたつの論文の関係についても言えるはずである。すなわち、ウェーバーの「問題意識」は、先行する『精神』よりも、むしろ後から発表された『教派』のほうで、ヨリ鮮明に示されいる。したがって、『精神』を読もうとする読者は、その前に『教派』のほうを読んでおかれるとよいと思う。
しかもこの本は、ウェーバーが一九〇四年にアメリカを旅行した際の見聞や体験が基調になっていて、非常に読みやすいし、また興味深い。
論より証拠という言葉があるので、実際に、その一部を紹介してみよう。訳文は、中村貞二氏のものである(『世界の大思想』Ⅱ‐7)。
この話〔車中で、セールスマンから聞いた話〕だけでは問題はまだぼんやりしている。だが、オハイオ河畔の大都市で開業していたドイツ生まれの耳鼻咽喉科医の物語りをすれぼ、もうすこし事情がはっきりしてこよう。この医者は患者第一号のことを私に話してきかせた。つぎのような次第。鼻鏡の診察を受けるため、医者にうながされて診察台に横になったこの患者は、また起きなおって、いかめしくはっきりした口調でいったものだ。『先生、私は某某街の某々バプテスト教会に属する者です』。鼻の病気と鼻の治療にこの事実がいったいどんな意味をもっているのかさっぱりわけがわからなくて、かれ(医者)は知合いのアメリカ人の同業者に折り入って尋ねてみた。この男は、笑いながら、それにはこれだけの意味しかないのだ、と教えるのであった。つまり、「診察代はご心配なく」。だが、ずばりこういう意味だといえるのはなぜか。第三の事件をお話しすればはっきりしてくるだろう。
アメリカを訪問したウェーバーにとって、車中で、セールスマンと出会って会話したことが「第一の事件」で、ドイツ人医師から体験談を聞いたのが、「第二の事件」であった。
「第三の事件」(バプテスト派の洗礼式に列席した)についての紹介は割愛し、ウェーバーが、これらの見聞・体験によってたどりついた「見解」を述べている部分を引用する。
観察の眼をもっとひろげてみたところ、こういう現象もしくはこれとひじょうによく似た現象が、まったくべつの地方で同様に起こっていることがわかった。メソジスト派、パプテスト派、その他の教派(もしくは教派ようの集会)に属する者(総じてこういう者だけ)が成功したのだ。教派の成員がよそへ引越すとき、またかれが注文をとってあるくセールスマンであるとき、かれは自分の教団の証明書〈サーティフィケイト〉をもっていく。そうすれば教派の仲間とつながりができるばかりでなく、とりわけどこでも通用する信用をもちあるくことになる。もしもかれが(自分から招いたわけではないのに)窮したばあいには、教派が乗り出してきて問題の処理にあたり、債権者に保証を与え、八方手を尽くしてかれを助ける。【中略】
しかし、このばあい債権者が教派の成員に信用を与える究極の動機は、いざとなれば教派がみずからの威信にかけて俺に損をさせるようなことはすまい、との期待ではなかった。かなり名の通った教派には、その『品行』一点の非もなしという折紙つきの人物しか入れてないとかれ〔債権者〕が思っていた事実、これが決定的な動機だったのである。それゆえ教派の一員であることは、『教会』――ひとは教会のなかに『生まれ落ちる』、教会は正しいひとにも正しくないひとにもその恩恵の光をかがやかせる――の一員であることとは対照的に、人物の倫理資格証明書、とくに営業倫理資格証明書の交付を意味したという事実、これが決定的な動機だったのである。【後略】