礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

三木清、突然訪ねてきた編集者の取材に応じる

2014-01-11 04:14:48 | 日記

◎三木清、突然訪ねてきた編集者の取材に応じる

 昨日の続きである。昨日は、長尾和郎『戦争屋』(妙義出版、一九五五)から、「清水幾太郎と三木清のこと」という文章の前半部を紹介した。本日は、その後半部。

 その日は雨のそぼふる日であった。有馬攻略〔有馬頼寧への取材〕に、成功した私ではあったが、清水幾太郎をものにすることのできなかった打撃は大きかった。私はがっくりした。締切日も迫っているし、清水に代る人をだれにするか、私は私なりの決意するものがあったのだろう。速記者をうながして、高円寺の三木清邸を訪ねたのは、その日の四時か五時ごろだった。清水が断るのだから、恐らく三木もダメだろう。私の足は重かったが、三木清への魅力は、なにか私をふるいたたせるものがあった。
 カサをもたない私たちが、三木の玄関にたどりついたときはびしょ濡れの姿だった。和服の三木は、玄関に立つやいなや、「ぼくを追っぱらうような法政の雑誌になにがしゃべれるか」と、つっぱねるようにいうのであった。哲学者としての三木を想像していた私は、それにかえす言葉もなかった。著書からの三木清の映像はみじんもなかった。私はとっさに「法政がにくいのか、学生がにくいのか」と、喰ってかかるような言葉が口から出るのであった。三木はじっと私の顔を見入っていたが、にやりとして私たちを玄関脇の応接室に招いてくれた。いま原稿をかいているから、ちょっと待てといって足音をのこして二階の書斎へ去った。
 私は、いまだにその日の感激を忘れえない。待てといえば対談はとれたも同じだ。ムダ骨折だった十数回の清水訪問、あのいんぎんに私たちのいい分をきき、約束までしてくれた清水は、いったいなぜ学生にいかに生きるの解答をあたえてくれなかったのか。応接間に待つ小一時間そのことで頭はいっぱいであった。玄関口でどなりつける三木清は、ただの一度で私たちの願いをいれてくれた。人間というものの初印象ほど恐ろしいものはない。清水に失望し、三木に明るい希望を見出したといっても、そのころの私にとってはなんの誇張もなかったろう。
 三木は、こんどはバット〔ゴールデンバット〕をくわえ、にこにこして私たちに対した。私は手帖を開き、つぎつぎと質問した。三木はその質問に懇接ていねいに答えてくれた。対談は二時間余にわたった。「現代学生を語る」であった。三木は速記ができたらもってくること、そして私に暇をみて遊びにくるようにといってくれた。
 街は夕やみにつつまれていた。清水を“偽善者め”と罵った速記者は、三木清絶賛を語りつづけるのであった。私は対談の成功にほっとするのだが、それ以上に気持からくる疲れで速記者のおしゃべりと反対にものいう元気もなかった。【後略】

 文章は、もう少し続くが、一応ここまで。
 ここで述べられている三木清の対応に比べると、清水幾太郎の対応(昨日のコラム参照)が、いかにひどいものだったかがわかる。

コメント (2)
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