礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

安重根の背後関係は深く追求されていない

2014-01-23 06:04:10 | 日記

◎安重根の背後関係は深く追求されていない

 いま必要があって『安重根事件公判速記録』(初版)を読んでいるが、溝淵孝雄検察官の論告のなかに、気になる部分を見つけた。その部分は一一三ページにある。
 原文は、句読点がついていないが、適宜、句読点を施しながら、引用してみる。

 犯罪の決意、模様、日時、場所 
一、決意を為すに至る模様は、伊藤公に対しては私怨あるに非ず。個人として生命を奪ふは忍びざるも、東洋平和、韓国独立の為めに、之を亡はざるべからず。之が為めには、父父母兄弟を見捨てたり。現に安〔重根〕の如きは眼中父母妻子兄弟なしとは、被告の主張なり。犯罪と犯罪防止観念と心裡に於て競争し、其防止観念を抑圧し、殺意を決するを以て、予謀せる殺意なりと謂はざるべからず。
二、此決意は、浦塩〔ウラジオストック〕に於て、其出発前、咄嗟〈トッサ〉の間に起せしものとす。安は三年前より殺害の意思ありといふも、安は鄭大鎬に託し、其妻子を呼び寄せんとしたるは、旧八月の事なり。伊藤公渡満の風評の、東京より満洲に報ぜられたる最初は、十月六日発電にして、満洲日々、遼東新報共に東京電報として掲載せり。露国哈爾賓〈ハルビン〉新聞の現はれたる初めは、露暦十月七日、即ち日本の十月二十日にして、其実際公表せられたるは十月中旬頃なり。
安は浦塩出発二日前、同地に来たり。浦塩大東共報社に於て、伊藤公来哈の風説を聞くと言へり。左すれば〈サスレバ〉、公表後の事なり。安が何れの経路を取り浦塩に来りしや、又永く浦塩に居りたるや、権謀術数ある安の陳述の事とて、容易に断定し得ざるも、余り被告の罪跡に関係無きを以て、深く追窮せず。
三、【以下略】

 最後のところで、溝淵検察官は、「安が何れの経路を取り浦塩に来りしや、又永く浦塩に居りたるや、権謀術数ある安の陳述の事とて、容易に断定し得ざるも、余り被告の罪跡に関係無きを以て、深く追窮せず」と述べている。
 要するに、安重根の背後関係については、よくわからず、また深く追求しなかった、しかし、安が実行犯だということだけは、間違いないので死刑にしたいというふうに受けとれる。もちろんこれは、溝淵検察官一個人の意思ではなく、当時の政府中枢の意思だったと思われる。
 いずれにしても、この事件は、まだまだ謎が多いと言わざるをえない。

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