◎西村貞陽、10名の清国人農夫を開拓使に招く
昨日、インターネット上にある『開拓史裁録』という文書綴を紹介したが、これは見ているだけで飽きない貴重な史料である。
たとえば、「明治九年一月三一日」付の「乙第十一号 清国人雇入之義上申」という文書がある(インターネット上では、「清国人梁維升外九名、雇入ノ件」)。文書を発したのは、「開拓中判官西村貞陽」である。
本文の全文は以下の通り。
清国人雇入之義上申
昨年中貞陽義〔「拙者」を消して〕清国エ被差遣候節北海道開墾之為同国人梁維升外九〔「以下十」を消して〕名別記ノ通農夫トシテ当史〔開拓使〕エ雇入給料ハ毎一人一月金五円七十五銭支給致約定ニテ現今悉皆到着候条此段上申仕候也
明治九年一月卅一日 開拓長官黒田清隆代理
開拓中判官西村貞陽
太政大臣三条実美殿
これを見ると、清国から農民を招いたのは、開拓中判官の西村貞陽であったことがわかる。
続いて、別記を見てみよう。
別記
梁維升
遅相臣
范永吉
徐七令
各ハ明治八年十一月九日ヨリ向三ヶ年間
許士泰
厳福純
各ハ同年同月十五日ヨリ同断
許同径
許敬孔
各ハ同年同月廿四日ヨリ同断
何正点
何正義
各ハ同年十二月十五日ヨリ同断
別記には、以上一〇名の名前があがっている。この一〇人の名前は、すべて、昨日紹介した「雇外国人職員表」に、「農夫等」、「農夫」として載っている(表記に、若干の違いがあるが)。また同表には、これ以外の「農夫」の名前はない。
また、この別記には、「鞣皮工」の二名(張尚有と王直金)、「通弁兼清国人取締」一名(黄宗祐)の名前がなかった。これは、職掌が「農夫」ではなかった、もしくは、あとになって雇われたなどの理由があったと考えられる。ということは、一八七八年(明治一一)に遅相臣を殺害した「何進業」は、農夫以外の職掌で雇われた、もしくは、あとから「農夫」として雇われた清国人だったということも考えられる。