◎柏木隆法氏の小田頼造研究
昨日、拝受した柏木隆法氏の個人通信「隆法窟日乗」に、小田頼造の曾孫にあたる女性から、旧宅を整理し、引き払う旨の連絡を受けたということが書かれていた。
小田頼造(一八八一~一九一八)というのは、幸徳秋水らの平民社運動に加わっていた社会運動家で、かねて柏木隆法氏は、その人物の事績を追い、関係資料の収集にあたってこられたのである。以下、「隆法窟日乗」(11月2日)、通しナンバー218から引用させていただく。
拙もこんな状態でなければすぐにでも行きたいのだが、拙の母も危篤状態だから身動きとれない。遺族調査の場合、子や孫の代にはある程度わかるが、曾孫の代になると望み薄となることが多い。これも選択の岐路だが、わかっていてもなおも選ばなければならないのは困る。赤穂浪士の毛利小平太や高田軍兵衛がいざというときになっても家庭の都合で参加できなかった気持ちがよくわかる。明治の社会主義者が思想面からの挫折よりも家庭の都合で運動から離れた実例の方が多い。それをさも「裏切り者」と評価するにはあまりにも酷のように思う。拙は名古屋の平民社の残党を一人一人訪ねてその事情を聞いて回ったが、思想的な挫折は一人もいなかった。小田頼造の場合は存命中でも頼造を知る人はなく、縁者を探すだけでも精一杯だった。何点かの書簡を見つけることができてもその書簡の背景までは訊く人もなく限界だった。その最期のチャンスだが今の拙にはどうすることもできない。拙の集めた資料はきちんと整理しておかないとタダのゴミの山である。一品ずつ解説を付して整理してあるから使い物になるだけ、ファイルするだけではどうにもならない。拙はいままで何らかのメシの種を稼ぎながら片手間にこんな地味な作業をやってきた。古くは蘭渓道隆〈ランケイ・ドウリュウ〉の五山版版木や六歌仙の書、藤原惺窩の書簡から頼山陽などもある。そんなものが趣味かと云えば趣味ではない。取材の過程で集まってしまっただけである。取材に元手が掛かっているのでタダでくれてやることはできないが、購入したい方があればこちらも売却したい。ところが見に来た人は何人かいたが、資料館や大学などは寄付してくれという。宝の持ち腐れながら保存していくにも金がかかる。これが拙の悩みの種である。和紙はクン燻蒸という方法で燻し〈イブシ〉て虫に食われないようにする。鎌倉期以前の紙は楮〈コウゾ〉とトロロ葵だけで漉き取っているから虫に食われやすい。室町期以降になると麻の繊維や三椏〈ミツマタ〉が混ぜてあるからある程度は保管が出来ているが、今度は絵巻物のように岩絵具〈イワエノグ〉が使用されているから落剥〈らクハク〉が心配だ。源氏物語絵巻の実物を見たことがあるが、酷いところは肉眼では見えなかった。高温湿気の日本ではこうしたものを保管するには国家規模の保存機関が必要となる。奈良の正倉院なんかはよくあの遺物が保管できたと感心している。それでも係の人から聞いたが書類の補修は一枚の紙でも修復するのに一ヶ月はかかるという。億単位の修復料がかかり、年に一度正倉院展を開くのはその修復料を稼ぐためである。拙らはそんなことは出来ないから、展覧会に貸出していくらかのお金を頂いてそれにあてているが、そんなことではとても追いつかない。結局自己犠牲が伴う。伊藤証信が無我愛の天啓を受けた時、近くにあった紙にその感動を一気に書いた。紙がなくなると新聞紙に書いたために拙が見つけた時には風化して開くこともできなくなっていた。拙はそれをピンセットで開き、薄美濃紙〈ウスミノガミ〉で裏打ちをして鳥の子紙〈トリノコガミ〉に貼り付けた。そして何とか見えるようにした。全部整理するのに10年かかった。保管庫のために書庫を整理して立て直し、これが300万円もかかった。資料保存というのは大変だ。
柏木氏は、小田頼造について蓄積されてきた研究を一冊の本まとめるべく、現在、資料の整理にあたっておられるようだ。貴重な一次資料を駆使した、画期的な研究書になるであろうことは間違いない。問題は、刊行を引き受けてくれる出版社が見つかるかどうかである。そうした地味な研究に対して理解のある出版社があれば、ぜひとも、柏木氏にコンタクトをとっていただきたいと思う。また、そうした出版社に心あたりのある方があれば、ご一報いただければさいわいである。
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