◎武者小路実篤「筆禍」事件(1936)
先月三〇日、「池袋支部の三角寛、牛込支部の佐藤義亮」と題したコラムで、雑誌『ひとのみち』の第一二年三月号(一九三六年三月一日発行)の記事を紹介した。雑誌『ひとのみち』は、「扶桑教ひとのみち教団」が発行していた広報誌である。
この雑誌は、五反田の古書展で入手したものだが、このとき同時に、『ひとのみちに対する誤解を一掃す』というパンフレットも入手した。扶桑教ひとのみち教団奉仕員総連盟東京地方連盟が、一九三六年(昭和一一)三月一〇日に発行したものである。
本日は、このパンフレットから、武者小路実篤「筆禍」事件について言及している部分を紹介したい。
このパンフレットが出された時期は、一九三五年(昭和一〇)一二月八日の「第二次大本事件」(「第二次大本教事件」ともいう)と、翌一九三六年九月二八日の「ひとのみち事件」の間にあたり、「大本」(俗にいう「大本教」の正式名称)に対して過酷な宗教弾圧を終えた国家権力が、次のターゲットを「ひとのみち」(扶桑教ひとのみち教団の略称)に、見定めていた時期である。
ときあたかも、知識人・大衆・マスコミの間から、しきりに「ひとのみち」に対する批判・罵倒が激しくなっていた。そうした中で、作家の武者小路実篤もまた、「ひとのみち」に対する批判をおこなった。しかし、これは、「ひとのみち」側からの厳しい反論によって、結果的に「筆禍」事件という形をとることになった。
『婦人公論』なる婦人雑誌の二月号に、文士武者小路実篤〈ムシャノコウジ・サネアツ〉氏が、ひとのみちを目して「ニセ宗教」と断定し、最近教団が信徒の希望者に交付してゐる「おふりかへ像」を金儲けの手段であると誹謗しました。その論旨は破綻百出、しどろもどろの言ひ方で、本教団に対して何の知るところなく、単に世間の噂を聞きかじつて書いたに相違ないことが明かなので、信徒の中から、中根駒十郎、三角寛の二氏が訪問して一々説明すると、武者小路氏は、率直に自己の不明と軽率とを心から謝し、自ら進んで左の取消し文を二氏に渡されたのであります。
《私が婦人公論二月号に「人の道」に就て書いた文句は、単なる噂を基礎にし気軽な想像をそれに加へたもので、中根君、三角君のお話を聞き、僕のあやまりがはつ切りしたことを嬉しく思ひましたと同時に、自分の書き方に無責任な処があつたことを正直なところ恥かしく思ひました。
言ひわけはこのさいやめて、薄弱な根拠の上で言つた御振替像とニセ宗教云々(人の道に関する範囲で)を卒直にとり消します。
一月二十五日 武者小路実篤》
世人は以上の事実を何と見られるでせうか。
「『婦人公論』なる婦人雑誌の二月号」とあるが、一九三六年(昭和一一)二月号で、発売は、同年一月だったと思われる。
この号に武者小路実篤が書いた文章に抗議するため、作家の三角寛が、武者小路宅を訪問している。のちに、サンカ小説で知られることになる三角寛は、池袋支部に所属する奉仕員であり、いわゆる「ひとのみち文士」であった。
彼に同道した中根駒十郎というのは誰か。中根駒十郎は、「新潮社の大番頭」と呼ばれた編集者で、同社の創業者・佐藤義亮の義弟にあたる。夏目漱石、芥川龍之介、谷崎純一郎とも親しかったという(ウィキペディア)。つまり、三角寛よりは、ずっと「大物」であった。こういう人物に押しかけられたのであるから、武者小路実篤としても、発言を撤回しないわけにはいかなかったのだろう。
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