礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

『雪国の民俗』と甲鳥書林の矢倉年

2014-11-08 16:06:22 | コラムと名言

◎『雪国の民俗』と甲鳥書林の矢倉年

 昨日の続きである。『雪国の民俗』(一九四四)の奥付には、以下のようにある。

昭和十九年五月 十 日初版印刷
昭和十九年五月二十日初版発行
                  (五千部)
発行所 養徳社(旧甲鳥書林) 
雪国の民俗  定価 停 拾弐円
特別行為税相当額 壱円拾銭
合計      拾参円拾銭
著 者   柳田國男/三木 茂
発行者   中市 弘
写真製版所 小池広信
印刷者   菅生定祥
配給元 日本出版配給株式会社

 奥付の右上部には、篆字で「甲鳥書林」と記された、大きめの検印紙が貼られ、そこに「三木」という三文判が押印さてれいる。
 昨日、紹介した「本書刊行遅延について御わび」という文章の筆者は、発行者の中市弘だったのだろうか。
 おそらく違うだろう。同書の「あとがき」は、三木茂が執筆しているが、その最後のほうに、「甲鳥書林主の矢倉氏には、出版を遅れされて、誠に申訳けがなかつた」という一行がある。この「矢倉氏」が、この本の担当者であり、かつ、「本書刊行遅延について御わび」という文章の筆者だったのではないだろうか。
 矢倉氏のフルネームは、矢倉年である。これは、インターネットから得た情報である。インターネットで「甲鳥書林」を検索してみると、「関西の出版社」というブログ中の「甲鳥書林」という記事にヒットした。

 1939年に三重県出身の中市弘と矢倉年の義兄弟が京都市下鴨泉川町で創業。東京にも拠点を置いた。吉井勇に出版社名を相談し鴨川とその支流高野川の中間に位置するところから「鴨」の字を二つに分けて甲鳥書林と名付けられた。1944年、天理時報社などと統合して養徳社となった。1946には甲文社として再出発し、1950年には矢倉が書林新甲鳥として独立(〜1956年頃まで)、中市は甲鳥書林新社、甲鳥書林、甲鳥書房などの名義を使いながら1976年まで出版をつづけた。石塚友二、野口冨士男、庄野誠一らが編集に携わった。

 すなわち、甲鳥書林は、一九三九年に、中市弘と矢倉年が共同で創業した出版社であったが、一九四四年に養徳社となった。『雪国の民俗』は、甲鳥書林が制作し、養徳社の名前で発行したのであろう。そしておそらく、『雪国の民俗』の制作を担当していたのは、矢倉年だったのであろう。

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