◎再読『働かないアリに意義がある』(2010)
数年前に、長谷川英祐〈エイスケ〉氏の『働かないアリに意義がある』(メディアファクトリー新書、二〇一〇)という本が評判になった。私も買って一読し、それなりに得るものがあった。
その後、本年八月に私は、『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)という本を世に問うた。巻末の参考文献には、『働かないアリに意義がある』も入れておいた。ただし、本文でこの本に言及することはできなかった。
先週、鵜崎巨石氏のブログを拝見していて、『働かないアリに意義がある』の書評があることに気づいた。鵜崎氏がブログで書評されている本と、これまで私が読みあさってきた本は、あまり重ならないが、このアリの本なら読んだことがある。拝読してみると、予想もしなかった書評であった。あのアリの本を、こういうふうに読む人もいるのかと驚いた。
ことによると、私の読みが浅すぎたのだろうか。あの本は、本当は、とてつもなくスゴイ本だったのだろうか。そう思って、もう一度、『働かないアリ』を手に取った。今度は、数日かけて、ていねいに読んだ。「真性社会生物」の世界の紹介、その世界に関する学問的研究の現段階についての紹介は、わかりやすい。そうした「真性社会生物」の世界の知見が、人間社会について考える際のヒントになるという指摘も、きわめて興味深かった。
しかし、ここで疑問が湧いた。たしかに、「真性社会生物」の世界の知見は、「人間社会」について考える際のヒントになるかもしれない。しかし著者は、これら両者の「比較」が、なにゆえに成り立つのかについて、十分な説明をおこなっていない。
また、こうした比較を成り立たせるためには、「真性社会生物」の世界について研究を極めると同時に、「人間社会」についても、研究を極めておく必要があるのではないか。著者の「真性社会生物」に関する研究のレベルが、一流であることは間違いない。一方で、著者が、この本の随所で試みる「人間社会」についての観察は、通俗にして皮相なものに過ぎない。
本書では、仕事を怠ける社員や過労死する社員といった「たとえ」が登場する。これらのたとえは、「真性社会生物」の世界を説明する際には有効であると思う。しかし、たとえに、それ以上の意味を持たせることには問題があろう。本書を再読してみて、初めて、このことに気づいた。
ところが、本書を読んでいると、今日の企業社会における「怠ける社員」や「過労死する社員」の問題が、「真性社会生物」の世界の知見によって理解できるのかのような「錯覚」に陥る。著者は、読者がこの錯覚に陥らないように配慮しているかというと、そうではない。むしろ、読者をそのような錯覚に誘導している可能性がある。あるいは、著者自身が、そうした錯覚に陥っているのか。
本書の七五ページで著者は、次のように言う。
重要なのは、ここでいう働かないアリとは、第4章で紹介するような社会の利益にただ乗りし、自分の利益だけを追求する裏切り者ではなく、「働きたいのに働けない」存在であるということです。本当は有能なのに先を越されてしまうため活躍できない、そんな不器用な人間が世界消滅の危機を救うとはなんだかありがちなアニメのストーリーのようですが、シミュレーションはそういう結果を示しており、私たちはこれが「働かない働きアリ」が存在する理由だと考えています。
働かないものにも、存在意義はちゃんとあるのです。
「働かないものにも、存在意義はちゃんとあるのです」という本書のコンセプトは、よく理解できる。しかし、上記のたとえは、ゆきすぎではないか。「働きたいのに働けない」と悩む社員は、たしかにいるだろう。しかし、本当に「働きたいのに働けない」と悩むアリがいるのだろうか。ここまで言ってしまうと、著者の専門領域そのものの信用性を損なうことになりはしないか。
「真性社会生物」の世界と人間社会を比較することは、興味深い試みだと思う。この比較をしなかったとしたら、この本の魅力は半減したことであろう。しかし、上記のような疑問が湧いた瞬間に、私にとって、この本は「スゴイ本」ではなくなった。
にもかかわらず、この本に対する鵜崎巨石氏の書評は、「スゴイ書評」なのである。つまり、氏の書評は、対象の本を超えて、スゴイのである。なぜそれが言えるのか。なぜ、そういう書評が可能になったのか。これについては、次回、鵜崎氏の書評を転載させていただいた上で、検証してみたい。
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