礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

マーク・ゲインが石原莞爾に発した二つの質問

2014-11-15 06:07:32 | コラムと名言

◎マーク・ゲインが石原莞爾に発した二つの質問

 昨年二月二二日に、「石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因」というコラムを書いた。これは、早瀬利之氏の著書『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』(双葉新書、二〇一三年二月一七日)から、マーク・ゲインが石原莞爾に対し「日本の敗因」などについて聞いている箇所を紹介しただけの記事であった。
 早瀬氏は、この石原の証言の出所を『ニッポン日記』だとしている。たぶん、マーク・ゲイン著・井本威夫訳『ニッポン日記』(筑摩書房、一九五一)のことだろうとは思ったが、確認はしなかった。たまたま先日、その『ニッポン日記』上下二冊を入手したので、早速、確認してみた。上巻の一六五ページ以下に、たしかに石原莞爾へのインタビューの内容が載っている。日付で言えば、一九四六年(昭和二一)四月二七日のところである。
 当該部分を引用してみたい(本日、引用するのは、上巻一六五~一六六ページ)。

 しかし私は田中〔隆吉〕よりも石原〔莞爾〕将軍に、より興味を感じる。彼の活動の一端には、昨年のクリスマス当時、酒田でお目にかかった。私の日本人の友人の多くは、右原こそは占領終了後の日本、マックアーサー後の日本の最も可能性のある指導者〈フューラー〉だと思っている。彼は敗戦によって何らの汚辱も蒙りはしなかった。彼は怜悧な政治家である。彼は人の指導者である。
 ある日本人の新聞記者が、石原は手術後のため、東京で療養中だとおしえてくれた。コクレン〔ボッブ・コクレン〕と私は、ようやくある病院で彼をみつけた。
 石原にあったのは、その病院の小さな一室だった。その部屋の窓枠はまだ爆撃のため歪んだままだった。彼はやせた男で、渋紙色にやけ、頭は剃ったように短く刈っていた。厳しい滅多に瞬きもしない黒い眼は私たちを射貫くような光をたたえていた。彼は手を膝において寝台の上に日本式に坐っていたが、黄色い支那絹の不恰好な寛衣をまといながらも、彼の体躯は鋼鉄の棒のように真直ぐだった。彼の背後には日本式の掛軸がかかっていた。
 私たちはただ二つだけ質問した。
 敗戦の日本は?
 そして彼自身は?
 彼はすぐさま鋭い確固とした口調で長々と答えた。自分の発した言葉の一つ一つに確信をもっている人の語り方だった。
『私が現役に止まっていたら、あなた方アメリカ人にもっと金をつかわせたでしょう。戦線を縮小し、アメリカの補給路を延長させ、日華事変を解決すれば、もっとうまくやれたと思う』
『日本の指導者たちがミッドウェイの敗戦の意義を理解し、ソロモン群島の防衛陣を強化していたら、太平洋の広さが日本に味方したにちがいない。山本五十六大将(米機に撃墜された連合艦隊司令長官)すら誤りをおかした。どこに根拠地を求めるべきかを知らなかったからだ。サイパン失陥をきいたとき私は敗戦を覚悟した。
『私は中国とは和平できたと思っている。我々は東亜連盟に非常な確信をもっていた。その精神を中国民衆に浸透させることさえできたら、戦いを終る〈オエル〉ことはできた。東亜連盟は終始非侵略主義だった。連盟は、中国が満洲国を承認すれば、中国から撤退し得ると論じた。蒋介石は相互に結末をつける段どりとなっていたら、満洲国を承認しただろう。私は終始中国本土から撤兵し、満洲国をソ連との緩衝地帯にせよとの意見だった。もちろん我々はソ連と戦う意志はすこしもなかったが。
『対中国政策に関しては東條と私の間に別に意見の相違はなかった。そんなことはありえたかった。なぜなら、東條という男はおよそプランなどをたて得る男じゃないからだ。彼は細かい事務的なことは実によくできる。しかし中国政策というような大問題に関してはまったく無能だ。彼は臆病者で、私を逮捕するだけの勇気ももたなかった。東條のような男や、その一派が政権を握り得たという事実がすでに日本没落の一因でもあった。
『東條は、右翼の一部をのぞいては誰からも支持されていなかった。東條を首相の地位につかせた連中は全然思想〈イデオロギイ〉をもたなかった。ただ政治の波の頂きに便乗したにすぎなかった。
『不幸なことには、東亜連盟は貴国の命令で解散させられた。東條も連盟を弾圧しようと試みたが、連盟は朝鮮でも満洲でもまた中国においてさえも力強い勢力を維持しつづけたのであった。マックアーサーが東亜連盟を解散したとき、我々は日本の軍国主義者〈ミリタリスト〉とアメリカの軍国主義者とは何のちがいもないことを知った。東亜連盟こそは共産主義思想と対等の条件で戦える唯一の組織だった。
『今日は我々は集会をもつことを許されないし、私の同僚は常時監視下にある。私の妻が私に逢いにくるのにさえ米軍当局の許可を得なければならない。私の手紙ば検閲され私の郷里あての東京からの手紙などは最小限三カ月かかる。東條時代も郵便は厳重に検閲されていたが、それでも一週間以内には届いたものだ。
『私の参謀本部時代、秩父宮(天皇の弟)が私の部下であらせられた。殿下がご病気になられさえしなかったら、大東亜戦争は起りはしなかったろう。一九四〇年〔昭和一五〕まで殿下は参謀本部におられた。殿下こそは陛下と国民を結びつけ、戦争をさけることができた唯一人の方であった。殿下は日華事変開始に反対され、後には、東亜連盟の理念に基いてこれを処理しようとされた。不幸なことに、事変勃発当時、殿下は欧洲におられ、何もなさることができなかった。
『近衛公の回顧録をお読みになったのなら、一九四一年の九月から十二月にかけて行われた会議のことを御記憶でしょう。当時の会談で、日華事変を惹き起した陸軍の一派はより大規模な戦争に訴えることなしには、事変の解決はできないという考え方を使嗾〈シソウ〉した。この一派はおどろくべく堕落した卑怯者だった。私も勇敢な男じゃないが、秩父宮殿下の御支持さえあったら、私は戦争を回避させることができたと思う』【以下は、次回】

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