◎指導者たちが我々を戦争に引きずり込んだ
すでに引用したが(今月一五日)、マーク・ゲインの『ニッポン日記』の一九四六年(昭和二一)四月二七日の項には、「彼の活動の一端には、昨年のクリスマス当時、酒田でお目にかかった」という一節がある。この「彼」とは、石原莞爾のことである。
前年の一九四五年の一二月二六日、マーク・ゲインは、酒田市に滞在していた。そこでゲインは、酒田警察署長にインタビューし、彼から、敗戦後における石原莞爾の動向を聞き出したのである。以下は、『ニッポン日記』上巻五九~六〇ページから引用。
さらに〔署長は〕かつて頗る強力だった酒田の国家主義運動についても話してくれた。
『最近の国家主義者の集会は、終戦後、そうですね、いまから二月ほど前に開かれました。石原莞爾中将の講演があるというので、二万人ほどの人がこの近くの町に集まりました』
この名前はまるで電鈴のように私の耳に鳴り響いた。十二三年前私が中国にいた時始めてイシハラという名前をきいた。彼は当時日本陸軍参謀本部の寵児だった。彼は満洲に勤務しアジア征服の計画を樹てた。狂信的な『青年将校派』と結び、東亜連盟を統率した。その狂暴な対外強硬主義は天皇の二人の弟を引入れ、すくなくとも二度は東條の暗殺を企てたがいずれも失敗に了った。
署長の言うところによると、この大会は今年の九月十九日、すなわち日本が降伏を宣言した日から三十六日目に開かれた。これは歯に衣〈キヌ〉着せぬこの超国家主義者の演説をきくためだけの単な〔る〕演説会ではなく、政府が支援した一大国民精神作興運動だった。文字通りの混乱のさなかのあの九月に、鉄道省は石原の信奉者を日本の隅々から運ぶために特別列車の編成をどうにかやりくりした。爽やかな初秋のこの日、二万の人が東條を弾劾する石原の演説をきいた。
この大聴衆を前に彼は演説した。
『諸君の勇気が足りなかったから敗けたのではない。あやまれる指導者たちが準備のない戦争に我々を引きずり込んだから敗れたのである。彼等は祖国を裏切り天皇を裏切った。我々は今やアジア共栄圏を再建して全くあらたに出直さなければならない。しかし今度は武力をもってではなくアジア諸国民との友好を通じてこれをなしとげなければならない。が、我々はじきに――おそらく十年以内に旧に復し得るであろう』
日本は新しき救世主以上のものを得つつあった。また敗戦の原因についても快い説明を得つつあった。すなわち、悪漢どもは今巣鴨で戦犯として裁判を待っている東條以下の若干名で、ほかの者は誰も責〈セメ〉はない。――天皇も大財閥の一家も政界の黒幕もまた石原自身の様な将軍たちも。これは傷ついた誇りに膏薬を塗り心の痛みを和らげる気持のいい解釈であり、第一次大戦後のドイツで行なわれたこれとよく似た理論のように――十年後の復讐戦争への道をひらくものであった。
ゲインは、石原の演説は、「今巣鴨で戦犯として裁判を待っている東條以下の若干名」を悪漢どもに仕立て上げるものであり、日本人の「傷ついた誇りに膏薬を塗り心の痛みを和らげる」ものであると理解する。なるほど、そのように解釈すれば、GHQが、この石原の演説を妨害しなかったことや、政府がこの集会を支援したことが腑に落ちる。本人がどのように考えていたかは知らないが、客観的に見れば、石原の所説は、GHQの占領目的に沿うものだったのだろう。
ところで、署長の言葉に、「石原莞爾中将の講演があるというので、二万人ほどの人がこの近くの町に集まりました」とある。この「石原莞爾中将の講演」とは、どこの集会のことを指しているのだろうか。大熊信行の『戦争責任論―戦後思潮の展望―』(唯人社、一九四八)には、「山形県では九月十二日新庄町公園広場にひらかれた東亜連盟県地区会員大会のために、やはり臨時列車が四本出されており、会衆一万五千ともいう」という一節があった(昨年一月八日の当コラム「敗戦直後、群集を前に獅子吼する石原莞爾」参照)。日付は少し異なるが、あるいは、この新庄町(現・新庄市)での大会のことだったのではないか。あるいは、これとは別に、九月一九日にも、酒田市の近くで、二万人規模の集会が開催されていたのか。
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