◎爾来、柳田氏と甚だ疎遠になった(本山桂川)
かつて、本山桂川は、「柳田國男とわたくし」という文章(執筆年代不詳)のなかで、次のように述べていた。
そもそもその後記が著しく柳田氏の感触をそこねたものらしい。というのは、それより先、佐々木君が生活に困って柳田氏に就職を依頼し、朝日新聞の通信員にでもと頼んだところ、柳田氏は冷然と君のような男を朝日に世話するほど僕は朝日に不忠実ではないと刎ねつけられた。それを聞いて義憤を感じていたわたくしは、そのことを右の後記に記し、且つ、あの柳田氏の遠野物語を佐々木君自身に書かしめていたら、日本民俗学の方向は今よりも違った姿をとっていたのではあるまいかと、暗に不平を洩らして書き記したためであろうと思う。爾来、甚だ疎遠になったのをわたくしは感得した。
ここで言う「後記」とは、佐々木喜善著・本山桂川編『農民俚譚』(一誠堂、一九三四)の巻末に付されている文章「追想 佐佐木喜善君の遺業と其晩年(本山桂川)」のことである(一昨日のコラム参照)。
昨日のコラムで確認したように、佐々木喜善が「或先輩」に就職の世話を頼んだところ、冷たく断られた事実を記しているが、その先輩が柳田國男であったとは明記していない。しかし、その一方で、「あの柳田氏の遠野物語を佐々木君自身に書かしめていたら、日本民俗学の方向は今よりも違った姿をとっていたのではあるまいか」ということは、ハッキリと述べている。
本日は、その部分を引用してみよう。
陸中遠野郷の一角が、民俗研究上の宝庫と目せらるゝに到つた抑〈ソモソモ〉の初まりば、云ふまでもなく柳田國男氏の手によつてものされた『遠野物語』に負ふものである。同書は明治四十三年〔一九一〇〕六月、東京聚精堂の発兌〈ハツダ〉に係り、扉には「此書を外国に在る入々に呈す」と書いてある。その序文の冒頭に曰く、
《此話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年〔一九〇九〕の二月頃より始めて夜分折々訪ね来り此話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手には非ざれども誠実なる人なり。自分も亦一字一句をも加減せず感じたるまゝを書きたり。思ふに遠野郷には此類の物語猶数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山神山人の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。此書の如きは陳勝呉広のみ。云々。》
鏡石は佐佐木君の旧号であつた。当時年僅かに二十四五歳、夜々〈ヨヨ〉柳田氏の旧邸に、あの巨躯〈キョク〉を運んで、四十項、百十九目の『物語』を、吃々として〔ママ〕提供したのである。
【一行アキ】
いつも私かに〈ヒソカニ〉思ふことだが、あの頃から佐佐木君自身に遠野物語を書かしめてゐたとしたら、民俗学界に於ける彼が其後の研究態度なり、方向なり、乃至は其地位なりに、如何なる変化を示したであらうか。彼がそれを敢てしなかつたことは、少くとも東北民俗探究のために、残念な事であつたやうな気もする。
さもあれ、彼は『遠野物語』以後に於て、自ら次の如き筆を執つてゐる。
遠野雑記 (東京人類学雑誌 二八ノ四 明治四五・四)
遠野雑記 (郷土研究 一ノ五 大正二・七)
ザシキワラシ (同 二ノ六 大正三・八)
オシラサマとオクナイサマ(同 三ノ一 大正四・三)
山男の家庭に就て (同 三ノ二 大正四・四)
オシラ神異聞 (土俗と伝説 一ノ一 大正七・八)
其発表するところ未だ多くはないけれども、彼が当初の傾向を窺知するに難くはない。おそらく彼は書きたかつたのだ。書かずには居られなかつたのだ――と思ふ。
文中、「吃々として」という言葉があるが、これは、一般的には、高く笑うさまを表現する言葉である(読みは〈キツキツトシテ〉)。ここでは、「口ごもりながら」という意味で使っていると思われる。あるいは、「吶々〈トツトツ〉として」を誤記したものか。
さて、ここで本山桂川は、「あの頃から佐佐木君自身に遠野物語を書かしめてゐたとしたら、……」ということを言っている。要するに、柳田國男に「材料」を提供することなく、佐々木喜善(鏡石)自身が『遠野物語』を書いていたとしたら、民俗学の世界における佐々木喜善の位置にも変化があったはずだし、そもそも、日本の民俗学の方向そのものを違ったものとなっていただろう、と本山は述べているのである。
これは、柳田國男を中心として展開してきた「日本民俗学」に対する、強烈な皮肉である。本山は、この後記を書いて以来、柳田と「甚だ疎遠になった」と述べているが、そういうことは、十分にありえたことだと思う。
さて、私としては、このあとさらに、①佐々木喜善が、柳田に「材料」を提供することなく、みずから『遠野物語』を書くという選択は、現実にありえたのか。②ありえたとしたら、佐々木による『遠野物語』は、どういう性格のものになったのか。③柳田國男の『遠野物語』というのは、どういう性格の書物として位置づけられるのか。などの問題に持ってゆきたい誘惑に駆られる。ちなみに、①②の問題は、本山桂川も意識していたと思われ、『農民俚譚』の「後記」で、明確な形ではないが、みずからの見解を示唆している。また、③の問題について、礫川は、『独学の冒険』において論じたことがある。しかし、同じような話が続くのもどうかと思うので、明日は、いったん、話題を変える。