◎佐川憲兵伍長は行政処分を受けて除隊
二〇一二年八月一〇日発売の雑誌『文藝春秋』同年九月号に、渡辺和子さんの「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」という手記が載った。新聞の広告でこれを知って、同日、同誌同号を購入。手記を一読したあと、翌八月一一日のブログで、「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」というコラムを書いた。憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
手記を書いた渡辺和子さんは、二・二六事件(一九三六年二月二六日)で射殺された渡辺錠太郎〈ジョウタロウ〉教育総監(陸軍大将)の次女にあたる。事件当時、九歳だった彼女は、至近距離から父・渡辺錠太郎の死を見届けたという。
さて、一昨日の東京新聞朝刊を見たところ、『文藝春秋』三月号の広告があり、そこに「2・26事件 娘の八十年 渡辺和子」というタイトルを目にした。そこで、四年ぶりに同誌を購入し、当該の記事を見てみると、今回のものは「手記」ではなく、渡辺和子さんと保阪正康さんの「対談記録」であった。ちなみいに、渡辺和子さんの肩書は、二〇一二年当時も、そして今日も、「ノートルダム清心学園理事長」である。
前回の「手記」を拝読したとき、私はいくつかの疑問が頭を去らなかった。翌日のコラムでは、その疑問を列挙して、研究者の教示を求めた。参考までに、私の抱いた疑問は、下記の通り。
1 事件当日、渡辺錠太郎邸(上荻窪)に常駐していた二名の憲兵の所属・氏名等。本人および上司の思想傾向。
2 二名の憲兵は、当日の挙動をどのように釈明したのか。また、その釈明についての記録は残っているか。
3 軍法会議では、二名の憲兵の挙動についての言及はあったのか。
4 二名の憲兵に対し、何らかの処分がおこなわれたのか。
5 事件後における二名の憲兵の動向。
このコラムは、私のブログにおいては、アクセスが多いほうに属している。しかし、残念なことに、ご教示やコメントは一件たりとも、いただいていない。
さて、今回の渡辺和子さんと保阪正康さんとの対談記録だが、これら疑問を解くような記述が載っていることを期待しながら読んだ。
結論から言えば、疑問の一部は解消したが、すべてが解消したわけではなかった。しかも、この機会に、二・二六事件関係の資料に当たってみたところ、かえって疑問が増えるという結果になってしまった。
ともかく、対談記録のうち、私の疑問と関わる部分を、まず引用させていただこう。
父を守らなかった憲兵
保阪 渡辺邸襲撃について、今も歴史の謎になっているのは、警護に当たっていたはずの二人の憲兵は何をしていたかという問題です。事件の当日、安田〔優〕、高橋〔太郎〕両少尉が率いる一隊が斎藤実〈マコト〉内大臣を襲撃した後、荻窪にある渡辺邸に到着するまで一時間ありました。その日の朝、電話で危急を知らせる連絡があったとお手伝いさんも証言されている。それなのに、憲兵二人は「二階で身支度をしていた」と事件後に語っているのです。奇妙なことです。
渡辺 私は、憲兵は父を守っているものとばかり思っていました。私と父が、二軒先にあった姉の家に行くわずかな時間でも付いてきましたから。当日の朝、確かに電話は鳴ったそうです。しかし、私たちのもとには何の知らせもありませんでした。後になって考えてみると、憲兵たちは父が襲撃されるのを知っていたとしか考えられません。
保阪 憲兵の佐川伍長はその後、行政処分を受け除隊しています。憲兵に皇道派が多かったのは事実です。ですから護衛ではなく、むしろ監視の意味合いが強かったのではないかども思いますね。
渡辺 父はある程度、憲兵が常駐していた意味を分かっていたのではないかと思います。食事も別でしたし、普段会話をすることもありませんでした。
保坂 事件後、憲兵からお詫びはなかったのですね。
渡辺 何もありません。
これを読むと、渡辺さんも保阪さんも、憲兵二人が、渡辺錠太郎教育総監を守らなかったという点において、認識が一致していることがわかる。
また保阪さんの語るところでは、憲兵二名のうち一名は、「佐川伍長」と言い、「その後、行政処分を受け除隊しています」とのことであった。しかし、佐川伍長のフルネームは示されず、また、「行政処分」の時期や理由もハッキリしない。【この話、続く】