◎鈴木貫太郎を救った夫人の「霊気術止血法」
二〇一二年一一月三〇日のコラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」において、たか夫人が試みた「セイキ術」による止血法について述べた。このコラムは、今日まで、足かけ五年の間、多くの方からアクセスをいただいてきた。
ところが今年になって、たか夫人が試みた止血法が、「セイキ術」に基づくものではなく、「霊気術」に基づくものだったかもしれないと思うにいたった。それは、鈴木貫太郎の「嵐の侍従長八年」(『特集文藝春秋』一九五六年一〇月、所載)という回想文を読んだからである。ここで鈴木は、事件当日、夫人から「霊気術止血法」を施されたと書いている。
そこで本日は、この「嵐の侍従長八年」を紹介してみよう。なお、この文章は、三段組一〇ページに及ぶ長文であり、全部で八節からなっているが、本日、紹介するのは、末尾に近い「二・二六事件」の節、および末尾の「死より再生す」の説である。
二・二六事件
二月二十五日にアメリカ大使のグルー君から齋藤〔實〕内大臣夫妻、それから私達夫婦と松田元大使、榎本海軍参事官が晩餐の招待を受け、食後映画の催しがあつて十一時頃帰宅した。その晩は大変に歓待を受けたのだが、電灯のせいか何となく暗く陰気な感じを受けた。
二十六日の朝四時頃、熟睡中の私を女中が起して、「今兵隊さんが来ました。後ろの塀を乗り越えて入つて来ました」と告げたから、直感的に愈々やつたなと思つて、すぐ跳ね起きて何か防禦になる物はないかと、床の間にあつた白鞘の剣を取り、中を改めると槍の穂先で役に立とうとも思われなかつたから、それはやめて、かねて納戸〈ナンド〉に長刀〈ナギナタ〉のあるのを覚えていたから、一部屋隔てた納戸に入つて探したけれども一向に見当らない。その中〈ウチ〉にもう廊下や次の部屋あたりに大勢闖入した気配が感ぜられた。そこで納戸などで殺されるのは恥辱であるから、次の八畳の部屋に出て電灯をつけた。すると周囲から一時【いつとき】に二、三十人の兵が入つて来て、皆銃剣を着けたままでまわりを構えの姿勢で取巻いた。その中に一人が進み出て「閣下ですか」と向うから叮嚀な言葉で云う。それで「そうだ」と答えた。
そこで私は双手を上げて「まあ静かになさい」とまずそう云うと、皆私の顔を注視した。そこで「何かこういうことがあるに就いては理由があるだろうから、どういうことかその理由を聞かせて貰いたい」と云つた。けれども誰もただ私の顔を見ているばかりで、返事をする者が一人もいない。重ねて又「何か理由があるだろう、それを語して貰いたい」と云つたが、それでも皆黙つている。それから三度目に「理由のない筈はないからその理由を聞かして貰いたい」と云うと、その中の帯剣してピストルをさげた下士官らしいのが「もう時間がありませんから撃ちます」とこう云うから、そこで、甚だ不審な話で、理由を聞いても云わないで撃つと云うのだから、そこにいるのは理由が明瞭でなく只上官の旨を受けて行動するだけの者と考えられたから、「それならやむを得ません、お撃ちなさい」と云つて一間ばかり隔つた〈ヘダッタ〉距離に直立不動で立つた。その背後の欄間〈ランマ〉には両親の額が丁度私の頭の上に掲つていた。
するとその途端、最初の一発を放つた。ピストルを向けたのは二人の下士官であつたが向うも多少心に動揺を来たしていたものと見えて、その弾丸は左の方を掠めて後力の唐紙を撃ち、身体には当らなかつた。次の弾丸が丁度股の所を撃つた。それから三番目が胸の左乳の五分〈ゴブ〉ばかり内側の心臓部に命中してそこで倒れた。倒れる時左の眼を下にして倒れたが、その瞬間、頭と肩に一発ずつ弾丸が当つた。連続して撃つているのだからどちらが先か判らなかつた。
倒れるのを見て向うは射撃を止めた。すると大勢の中から、とどめ、とどめと連呼する者がある。そこで下士官が私の前に坐つた。その時妻は、私の倒れた所から一間も離れていない所にこれも亦数人の兵に銃剣とピストルを突き付けられていたが、とどめの声を聞いて、「とどめはどうかやめて頂きたい」と云うことを云つた。
丁度その時指揮官と覚しき大尉の人が部屋に入つて来た。そこで下士官が銃口を私の喉に当てて、「とどめを刺しましようか」と聞いた。するとその指揮官は「とどめは残酷だからやめろ」と命令した。それは多分、私が倒れて出血が甚だしく惨憺たる光景なので、最早蘇生する気遣いはないものと思つて、とどめを止めさせたのではないかと想像する。
そう云つてからその指揮官は引きつづいて「閣下に対して敬礼」という号令を下した。そこにいた兵除ば全部折敷き跪いて〈オリシキヒザマヅイテ〉捧げ銃〈ササゲツツ〉をした。すぐ指揮官は、「起てい、引揚げ」と再び号礼をかけた。そこで兵隊は出て行つてしまつた。
残つた指揮官は妻の所へ進んで行つた。そして「貴女は奥さんですか」と聞いた。妻が「そうです」と答えると指揮官は「奥さんの事はかねてお話に聞いておりました。まことにお気の毒な事を致しました」と云う。そこで妻は「どうしてこんなことになつたのです」と云うと、指揮官は「我々は閣下に対して何も恨みはありません。只我々の考えている躍進日本の将来に対して閣下と意見を異にするため、やむを得ずこういうことに立ち至つたのであります」と云つて国家改造の大要を手短かに語り、その行動の理由を述べた。妻が「まことに残念なことを致しました。貴方はどなたですか」と云うと、指揮官は形を改めて、「安藤輝三」とはつきり答え、「暇がありませんからこれで引揚げます」と云い捨ててその場を去り兵員を集合して引揚げた。その引揚げの時、安藤大尉は女中部屋の前を通りながら、閣下を殺した以上は自分もこれから自決すると口外していたということを、これは引揚げた後女中が妻に報告した話である。(果して安藤大尉は山王の根拠地へ引揚げた後、自殺を企て拳銃で喉を撃つたが急所を外して死に至らず治療して治つたが、軍法会議の裁判の結果死刑になつたのである。)
思想の犠牲 安藤大尉【略】
死より再生す
襲撃隊が引揚げると同時に、妻は私を抱き起して出血する個所、殊に頭と胸の血止めに努めた。それから電話で事の次第を侍従職に告げ侍医の来診をお願いした。その時の当直の侍従は黒田〔長敬〕子爵であつたが、すぐ知合いの塩田廣重博士に電話で診察を頼んでくれた。間もなく真先に湯浅〔倉平〕宮内大臣が見舞に見えられたので、私はその御好意を感謝し、「私は大丈夫ですから御安心して頂くよう、どうか陛下に申上げて下さい」とお願いした。血が、ドクドクと流れるので、妻から「もう口を利いてはいけません」と云うわれた。つづいて廣幡〔忠隆〕皇后宮大夫が見舞に来られた時は只目礼で謝意を表した。まだ三十分から一時間と経たないうちに、塩田博士が御自分の自動車を待つ間ももどかしく、円タクを拾つて駈けつけて下さつた。博士は妻に、「私が来たから大丈夫だ、御安心なさい」と言葉をかけて部屋へ入ると、一面の血に辷つて〈スベッテ〉転ばれたのであつた。博士はお宅を出る時飯田町の日本医大に緊急の用意を命令して来られたので、御自身は医療の道具を持つておられなかつた。すぐ現状を診断され、気忙し気〈キゼワシゲ〉に妻に繃帯はありませんかと云われ、ありませんと答えると何でもいいから白布を出しなさいとのことで、それならばと羽二重〈ハブタエ〉の反物を切つて使つた。一応それで出血を止めた。私は寒い寒いと云つたそうだが、だんだん冷たくなる、脚が冷える、例とかしてくれそうなものだと思つたが、怪我をした者は動かしてはいけないというので畳の上に転がつたままだつた。それでもどうやら一間ばかりの所につくつた床の上に移されたが、その動かした後で意識がなくなつてしまつた。塩田博士は雪の中を円タクを見つけて日本医大へ行かれたが、この時には稲垣博士と吉田博士が見えていた。稲垣さんは輸血の方へ電話をかける。妻は駄目かと心配しながら懸命に霊気術をかけている。そこへ白衣の塩田博士が二名の助手を連れて帰つて来られた。すぐにリンゲルの注射が打たれ、この時私は気がついた。
飯島博士が輸血者を連れて来て、稲垣さんが輸血をすることになつた。五百グラム採血する途中、脈がだんだん衰弱して来てこれ以上待てないので、取敢えず三百グラム注入するとこれがよく利いた。脈がしつかりして来たので十畳の間へ移り、夜になつてから床の下に乾板を入れてレントゲンを撮り弾丸のありかを調べた。こうして治療は続けられて行つたが、ここに一つ不思議な話があつた。それは飯島博士が輸血者を伴なつて急いで来る途中、総理大臣官邸の前で兵に車を止められた。それで議会の方へ抜けようとすると又止められて何処へ行くと問われた。鈴木侍従長の所へ行くと云つたら、下士官が行つちやあいかんと云つて自動車へ乗り込んで来た。そして御案内しましようと云つて英国大使館前までついて来てくれ、ここまで来れば大丈夫ですと別れた。それは飯島さんの病院で一カ月前に助けられた人だつた。
十日間絶対安静で仰向けに寝たままだつたが一週間目ぐらいに塩田博士から「もうこちらのものになりましたよ」と云われたので愁眉を開いた。
この時の顳顬【こめかみ】に入つた弾丸は耳の後に抜け心臓部の弾丸は背中にとどまつて今でも残つている。心臓を貫いたのだというのと、その傍を廻つたのだというのと二説ある。最近は心臓を貫いてもすぐ血をとめれば生ききられると云うことだが、これは妻が必死にやつた霊気術止血法が成功したのかも知れない。
私は最初死去したと報道され、後〈ノチ〉重傷で命は取り留めたと報道されたので、叛軍が再撃を図る恐れがあるというので、当局では厳重な警戒を怠らなかつたそうである。
臥床中宮中から栄養物、スープ、牛乳など毎日のように御鄭重な御下賜品があつた。私は御慈愛に感激した。又各方面からの懇ろな御見舞を受けて感謝に堪えなかつた。
傷は重かつたのに拘わらず予後は順調で五月中旬頃参内して親しく御礼を申上げ、その夏には葉山にお伴し、九月北海道の陸軍大演習にも、十月の海軍特別大演箇にもお伴したが、奉仕は七十になつたら御辞退申上げるつもりでいたので、丁度その十一月に御暇を願うことにし、幸いお許しが出たので時従長八年の奉仕を終えることになつたのである。その翌年から毎年二月二十六日には齋藤實、高橋是清、渡邊錠太郎大将のお墓詣りをすることを今日まで定例としている次第である。
侍従長を拝辞してかけは専ら枢密顧問官としてお勤めし、昭和十五年〔一九四〇〕枢密院副議長、同十九年〔一九四四〕議長。終戦内閣の総理大臣になつた。
コラム「鈴木貫太郎を蘇生させた夫人のセイキ術」では、幣原喜重郎の自伝『外交五十年』(読売新聞社、一九五一)を典拠とした。ここで、幣原は、鈴木貫太郎からジカに聞いた話を披露したのであった。一方、「嵐の侍従長八年」は、鈴木がみずから執筆した文章である。後者のほうが事実に近い、と考えるのがスジであろう。
さて今回、インターネットで、「霊気術」を検索すると、「鈴木貫太郎の命を救ったレイキ(日本発祥の手当て療法)」(ちくてつのブログ)という記事にヒットした。同記事によれば、レイキ(霊気術)というのは、塩谷信男医学博士(一九〇二~二〇〇八)が開発した「ハンドヒーリング」のことらしい。塩谷博士自身は、かつて「生気術」を学んだという。
生気術と霊気術との関係が、よくわからない。また、塩谷信男博士と鈴木たかとの接点については、まだ調べていない。というわけで、二〇一二年一一月三〇日付のコラムは、加筆・訂正などをせず、まだ、そのままにしてある。