◎二階からの弾丸が足の甲に命中した(羽鳥喜平)
昨日の続きである。昨日は、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)から、木部正義(当時、伍長)が書いた「教育総監邸で負傷」という手記を紹介した。
本日は、同じ本から、羽鳥喜平という人物(当時、上等兵)が書いた「教育総監邸襲撃」という手記を紹介してみよう。
教育総監襲撃 羽鳥 喜平 大正元年一二月二三日生
(歩兵第三連隊第一中隊 上等兵) 【住所・職業略】
私は事件の起こるまで前ぶれというものを殆んど感如せず、毎日訓練に励んでいた。強いて関連づけるなら前日の夕食後、北海道からきたという将校が班内に入ってきて、私たちに対して行った妙な演説が決行の暗示のようでもあった。話の内容は(北海道は凶作で現地の連隊では毎日カボチャを食っているので皮膚が黄色になっているが、東京では米の飯を食っている。この不公平はすぐ是正しなければならぬ)というもので、私たちにとって何をいわんとしているのか、よく解らなかった。察するに国政が国民のために行われていないことを指摘していたものと思われた。
その後、下士官が将校室に集合し坂井〔直〕中尉から何やら話を聞いている様子だが、私たちには勿論何もわからない。だが何となく中隊内の様子がソワソワしていたのはどういう理由だったのであろうか。
二月二十六日〇三・〇〇、突如非常呼集で起こされた。私は軍装して舎前に集合すると間もなく編成が下達され、次いで実弾と食糧が交付された。私は第二分隊(分隊長木部正義伍長)で第一小隊長高橋太郎少尉の指揮下に入った。出発はそれから約一時間後だったが高橋少尉は出発にあたり次のような命令を下した。
「唯今より昭和維新を断行する。中隊は唯今ある所に向って前進する。各分隊の部署は予め示したとおり、なお現地において警備中歩哨線を通してもよいものは帽子のツバの裏側に三銭切手を貼った者だけとする」
命令が下達されるとすぐ出発した。この時私は被服係の末吉〔正俊〕曹長と兵器係の中島〔正二〕軍曹が逃亡したことを耳にした。彼等も当然編成要員の筈だったが、いつの間にか姿をくらませてしまったのである。後日聞いたところによると、中隊の出動をいち早く中隊長矢野大尉に報告に行ったという。
行進は間もなく停止した。目標は明示されなかったが後から斎藤〔実〕内府私邸であることがわかった。私の第二分隊は私邸から約百米はなれた道路の要点に散開して警備につき、襲撃隊は〇五・〇○を期して内部に突入した。一帯には静寂が漂い外部では何の変事も感じなかった。やがて夜が明ける頃襲撃隊が引上げてきて、坂井中尉と高橋少尉はピストルをもった右手を高くかかげ抱合ったまま「ヤッタ! ヤッタ!」 と叫んだ。襲撃は成功したのである。
部隊は直ちに警戒を解き正門前で隊列を整えると二手に分れた。第二班は私を含め五、六名が他中隊の者と共に赤坂離宮前から二台のトラックに乗車し、次の目標渡辺〔錠太郎〕教育総監邸に向った。この時の兵力は約三〇名である。
約一時間で目的地につくと、再び将校等による襲撃が始められた。私は塀の外に散開して警戒にあたったが、私邸の二階に電気がついていて、「あれを射撃で消せ」との命令が出たので早速発砲してこれを消すことにした。私はこの時三発発射した。すると二階にいた何者かがピストルを発射しつつ階下におりたようである。この時私は突然右足の甲を丸太で叩かれたような衝撃を受けたがべつに痛みもなくそれ切り忘れてしまった。二階にいたのは護衛で泊っていた憲兵だということである。
この襲撃も一時間足らずで終了し目的を達したあと正門前に集合、再びトラックで陸軍省に引上げた。途中憲兵の乗った車と遭遇した時、銃を向けて「撃つぞーッ」とおどかすと連中があわててかくれた一幕があった。
しばらく走った頃、私は右足首が再びチクチクするのに気付き、靴を抜いで調べてみると足の甲にピストルの弾がささっていて血がふき出していた。やはり叩かれた衝撃は二階から撃ってきた弾丸が甲に命中したのだった。
なお私の他に木部伍長も右足のフクラハギを撃たれていて渡辺邸襲撃の損害は負傷二名ということになった。【以下略】
この羽鳥喜平・元上等兵の手記からも、さまざまな情報が読み取れる。しかし、襲撃部隊が渡辺邸に到着した時刻や、そこから引き揚げた時刻は、残念ながら記されていない。
この手記によれば、「赤坂離宮前から二台のトラックに乗車し」、「約一時間で目的地」に着いたという。赤坂離宮前でトラックに乗った時間を午前五時二〇分とすると(大谷敬二郎『二・二六事件』)、渡辺邸に到着したのは、六時二〇分ごろということになる。これは、中島上等兵や木部伍長が証言した「午前七時」と四〇分もずれる。
また、「この襲撃も一時間足らずで終了し目的を達したあと正門前に集合、再びトラックで陸軍省に引上げた」とある。これによると、引き揚げたのは、午前七時二〇分以前ということになる。大谷敬二郎は、「襲撃隊はその目的を達し六時半頃引きあげた」としていたので(大谷『二・二六事件』)、こちらは、大谷の記述と五〇分もずれる。
渡辺邸襲撃に関する「時刻」の問題は、赤坂離宮前出発の時刻も含めて、慎重に再検討する必要があると思われる。ではあるが、渡辺邸にいた警備憲兵が、事前に「襲撃」の情報を得ながら、それを渡辺教育総監に伝えず、襲撃隊到着まで、慢然と二階に待期していた事実は動かない。襲撃隊到着後、二階からあるいは玄関内側から応戦したものの、その後、二階に引き揚げてしまった事実も、動かない。
佐川憲兵伍長が電話を受けてから、襲撃隊到着までの時間を確定することはできないが、午前五時五〇分から七時〇〇分までだった見ると、何と一時間一〇分。午前五時五〇分から六時二〇分だったと見ても、三〇分間である。
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