◎午前七時頃、総監私邸に到着した(中島与兵衛)
昨日のコラムで、渡辺錠太郎邸にいた護衛憲兵が、二・二六事件当日、牛込憲兵分隊から襲撃のおそれありという急報を受けながら、そのまま「一時間程度」、ほとんど何の措置もとらなかった可能性があることを示唆した。あわせて、大谷敬二郎の著書『二・二六事件』(図書出版社、一九七三)は、襲撃部隊の到着時刻を意図的に繰り上げることによって、この護衛憲兵の「怠慢」を隠蔽しようとした可能性があることを示唆した。
その根拠を述べよう。第一に、事件が終ってから、憲兵部内で、渡辺邸における護衛憲兵の行動が問題となり、「辱職罪で検挙せよ」との声も強かったという(大谷敬二郎『昭和憲兵史』)。これは、護衛憲兵の「怠慢」が度を越したものであったこと、具体的には、急報を受けた護衛憲兵が、「一時間程度」、ほとんど何の措置もとらなかったことを示しているのではないか。
もうひとつ、雑誌『文藝春秋』二〇一二年九月号に掲載された渡辺和子さんの手記「二・二六事件 憲兵は父を守らなかった」に、次のようにあるからである。
一九三二年には五・一五事件がありました。その約三年後の三五年七月に皇道派とされる真崎甚三郎大将が教育総監を更迭〈コウテツ〉され、父が後任になりました。翌月には永田〔鉄山〕少将が暗殺される事件も起きました。そのような背景がありましたから、父の警護のために自宅には憲兵が二人常駐していました。私と父とで一軒先にある姉夫婦の家に行くわずかな時間にも、必ず憲兵が後ろについておりました。
私が疑問を感じているのは、この憲兵たちの事件当日の行動です。お手伝いさんの話では、確かにその日、早朝に電話があり「(電語口に)憲兵さんを呼んでください」と言われ、電話を受けた憲兵は黙って二階に上がっていった、というのです。しかし、一階で父と一緒に寝ていた私たちのもとのは何も連絡が入りませんでした。私にはその電話の音は聞こえませんでしたが、もし彼らから何か異変の報告があれば、近くに住む姉夫婦の家に行くなりして逃げることも出来たはずです。しかし、憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていたというのです。兵士が身仕度にそんなに時間をかけるでしょうか。
また、父が襲撃を受けていた間、二階に常駐していた憲兵は、父のいる居間に入ってきていません。父は、一人で応戦して死んだのです。命を落としたのも父一人でした。この事実はお話ししておきたいと思います。
ここに、「憲兵は約一時間ものあいだ、身仕度をしていた」とあること(下線)に注意されたい。すでに見たように、この事件においては、護衛憲兵も拳銃で応戦している。したがって、この「約一時間」というのは、牛込憲兵分隊から急報を受けてから、襲撃部隊が渡辺邸を襲うまでの時間を指しているとみてよいだろう(私は最初、電話を受けてから襲撃隊が引き揚げるまでと受け取ったが、これは誤解だった)。
しかし、これらは、いずれも、急報を受けた護衛憲兵が、「一時間程度」、何の措置もとらなかったことを証明する決定的な根拠とは言えない。
そこで、少し別の角度から、渡辺錠太郎襲撃事件の真相に迫ってみたい。ここで、援用したいのが、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)という文献である。
この本の中に、中島与兵衛という人物(当時、上等兵)が書いた「私は軽機射手だった」と題する手記が収められている。中島与兵衛上等兵は、軽機関銃の射手として、斎藤邸襲撃と渡辺邸襲撃の両方に参加している。この手記は、九ページに及んでいるが、ここで紹介するのは、前半の四ページ強(一六四~一六八ページ)。
私は軽機射手だった 中島 与兵衛 大正三年四月一五日生
(歩兵第三連隊第一中隊 上等兵) 【住所・職業略】
私は当時第五班に所属し、初年兵教育の助手として毎日訓練にはげんでいた。
二月二十六日、多分零時頃だったと思う、就寝中いきなり窪川班長に起こされた。
「すぐ軽機〔軽機関銃〕を組立ててくれ、それから一装用の軍服を着用するのだ」
私はかねてから渡満の話を聞いていたので愈々〈イヨイヨ〉出動命令が下ったのかなと思いながらいわれるとおりに従った。
軽機は普通訓練用の銃身を装備して演習に使用していたが、今から実戦用の銃身と交換せよというのである。持ってきた銃身はグリスで格納されているので、この油をふきとりスピンドルを塗って交換する手順となる。私は手早やに作業を進め組立てを終わった。
三時頃になると非常呼集がかかった。班内はあわただしさの中で全員が軍装を整え、持込まれた弾薬と食糧を受取るとそそくさと舎前に整列した。
やがて大隊副官の坂井〔直〕中尉がきて命令をくだした。
「只今より中隊の指揮を坂井が執る。
命令―命によりこれから昭和維新を断行する、よって国賊に対して天誅〈テンチュウ〉を加える。
合言葉、尊皇=討奸」
私ははじめ何のことか判らなかったが、多分帝都に暴動が起こったので鎮圧のために出動するのではないかと推考した。しかし昭和維新ということが何であるのか、説明がなかったのでなんのことかわからなかった。
もう一つ、中隊兵力が殆んど出動するのに中隊長矢野〔正俊〕大尉の姿が見えず、関係の薄い坂井中尉が指揮をとるのは変である。また将校では高橋〔太郎〕、麦屋〔清済〕両少尉の他は誰もきていない。これも妙な話だ。
だが鎮圧を急ぐため、このような応急手段をとったのかもしれぬ……私は自分なりの解釈をしながら坂井中尉の訓示を聞いていた。
(この時末吉〔正俊〕曹長、中島〔正二〕軍曹の二名はすでに逃亡していた)
ここで出動にあたっての編成が組まれ、私はさきの軽機を携行して初年兵ばかり約一〇名を従え軽機分隊となり、その分隊長となった。なお今後は将校と行動を共にするよう命令を受けた。
やがて三時三〇分積雪の営庭を出発し粛々として乃木坂を下っていった。雪がまた降り出しあたりは白銀一色に覆われ、猫の子一匹見えず街並は静寂そのものであった。
約一時間も行進した頃隊列はフト停止した。場所は四ツ谷仲町近辺である。そして隊列が自動的に崩れ予め示された警戒位置に向って一斉に散開した。何と襲撃目標は斎藤〔実〕内府邸であった。散開したあとに残った兵力は概ね二〇名弱、これが襲撃班だ。私もその中の一人、将校は坂井中尉、高橋少尉それに砲工学校から参加した安田〔優〕少尉の三名、
麦屋少尉は警戒分隊への指示でまだ見えない。
五時正門から襲撃開始、数名が塀を乗り越えて中から門扉〈モンピ〉を調き、主力を邸内に誘導すると約一〇名くらいの護衛警官があわてて支度しているのに遭遇した。これを忽ち包囲し、
「静かにしろ、邸の周囲には二千名の軍隊が包囲しているのだ、抵抗は無駄だ!」
というと警官は観念したように腰をおろし命令に従った。だがこの内数名だけはどこかへ逃走したようであった。
襲撃隊は当初二手に別れたが急に一団となり建物の裏手から突入をはかった。先づ雨戸をこじあけようとしたがビクともしないので小銃の床尾鈑〈ショウビハン〉で叩きこわして内部に進入、そこは女中部屋で女どもが物音に驚き震えているのが見えた。そこへ書生らしい若い男が出てきて「何の用ですか」といった。
「斎藤内府に用事があってきた。部屋に案内してもらいたい」
すると書生は素直に返事をして二階の寝室に案内した。その後に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林〔武〕伍長、そして私の五名が続いた。部屋の前までくると我々の足音に目をさました〔春子〕夫人が、ソッと戸を開けたが我々の物々しい姿に驚きすぐに戸を閉めた。しかし多勢の力には抗すべくもなく戸は難なく開かれた。部屋の中は電灯がともり明るかった。
一歩部屋の中に踏み込むと夫人は我々の前に手をあげて立ち塞がり「待って下さい」と叫び進入を拒んだ。しかし我々は耳をかすことなく夫人を払いのけ奥の寝室の戸をあけると、そこに目指す斎藤内府が立っていた。それを見た一団は一斉に近迫したとみるや先づ安田少尉が「天誅国賊」と叫び拳銃を発射した。その距離僅か一米〈メートル〉、弾丸は正確に心臓に命中、内府は二、三歩後退するような恰好で倒れた。
すると夫人が横から飛び出し内府の身に馬乗りになって抱きかかえ、
「殺すたら私を殺せ」
と半狂乱になって絶叫した。
夫人は渾身の力で内府をかばい、しっかりと抱きしめているので引離すことができない。これ以上銃弾を浴びないように防ぐ姿に一瞬たじろいだが目的を達するため拳銃を差入れるようにして次々に発射、私も軽機で十五発連射した。頃合いをみて安田少尉が軍刀で止めを刺し斎藤内府襲撃は終了した。時に午前五時十五分である。
部隊は間もなく正門前に集結し万歳を唱えたあと二手に別れた。主力は坂井中尉、麦屋少尉の指揮で陸軍省へ、私たち襲撃班は徒歩で赤坂離官前に行き、そこからトラックで荻窪に向った。目標は渡辺〔錠太郎〕教育総監である。
午前七時頃正門前に到着、そこは総監の私邸であつた。直ちに門を押しあけて邸内に進入、襲撃は表と裏の両面から実施するため進入しながら二手に別れた。私は表玄関組である。早速屋内進入にかかったが玄関の戸締りが厳重で思うように開かない。そのうち内部から拳銃を射ってきたので忽ち銃撃戦とたった。そこで私も軽機を腰だめにして拳銃音をめがけて連射した。
数分たった頃、「裏口があいている」という連絡がきたので全員裏口に廻わり安田少尉が先頭を切って屋内に入った。
我々の襲撃を察知した総監はここから脱出しようとしたのではなかろうか。
安田少尉はツカツカと進んで部屋の戸をガラッとあけると、そこに〔すゞ子〕夫人が襖を背に、手を拡げて立っていた。安田少尉が総監の部屋を尋ねるといきなり、
「あなた方は何のためにきたのですか、用事があるなら何故玄関から入らないのですか」
と大声をあげた。夫人は勿論総監の居場所など答える筈はない。しかしその様子で大体察しがついた。その奥の部屋に居るらしい。いや、いる筈である。そこで高橋少尉が夫人を払いのけて襖を開放した。すると布団の付近から突然拳銃を発射してきた。正しく総監であった。その部屋は八畳ぐらいの寝室で、総監は布団をかぶりその隙間から拳銃を発射しているらしい。
ここでまた応戦の形で銃撃戦が行なわれたが、相手が一人のため瞬く間に決着がつき高橋少尉が布団の上から軍刀で止めを刺して引あげた。この襲撃も時間にすればせいぜい二十分位いだったと思う。【以下略】
長々と引用したが、最も注目すべきは、「午前七時頃正門前に到着、そこは総監の私邸であつた」という部分である(下線)。斎藤邸襲撃が終了した時刻を午前五時一五分とし、赤坂離宮前を出発した時刻を五時二〇分とすると、荻窪の渡辺邸到着まで、一時間四〇分を要したことになる。やや、時間がかかりすぎている気もするが、当事者がそのように書いている点は無視できない。
仮に、佐川憲兵伍長が電話を終えた時刻を五時五〇分とすると、それから七時〇〇分までの一時間一〇分の間、佐川憲兵伍長は、何らの措置もとらずに、襲撃部隊が来るのを漫然と待っていたということになる。
ところが、大谷敬二郎は、著書『二・二六事件』において、襲撃部隊が引き揚げた時刻を、午前「六時半頃」としている。大谷は、襲撃部隊の撤収時刻を意図的に繰り上げ、これによって襲撃部隊の到着時刻も繰り上げたのではないか。そうすることによって、護衛憲兵が、急電を受けてから、「一時間程度」、何らの措置もとらなかったという事実を隠蔽しようとしたのではないか。
大谷は、その著書『昭和憲兵史』においては、襲撃部隊の撤収時刻を記していない。これは、あえて記さなかったのであろう。そしてそこには、「牛込憲兵分隊の急報は、たとえ僅か二、三分でも時間的の予告があった筈である」という記述がある。大谷は、こういう表現によって、襲撃部隊の到着が急電の直後であったかのような印象を、読者に持たせようとしたものと思われる。
この話は、まだまだ続くが、明日と明後日は、いったん話題を変える。