◎1945年2月16日、帝都にグラマン来襲
今月一一日、中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前の二月一一日における著者(当時・緒方竹虎国務相秘書官)の「日誌」を紹介した。
本日は、その続きで、七一年前の二月一六日から一八日にいたる中村正吾の「日誌」を紹介してみたい。
二月十六日
午前八時、空襲警報となる。ラジオの放送は「敵小型機数編隊をもつて本土に近接しつつあり」と伝へる。この二、三日来、米機動部隊の本土近海出没の情報があつた際ではあり、本土がつひに米艦載機〈カンサイキ〉の攻撃を受けるに至つたことを直感した。容易ならぬ事態である。
約一時間の間隔をおいて、延〈ノベ〉千四百機をもつて、千葉、埼玉、神奈川県下の帝都周辺の各飛行基地を間断なく反復爆撃した。東京の空ははじめてグラマン戦闘機の急降下爆撃の無気味な音を聞く。
帝国海軍微動だにもせずとの皮肉な声が巷〈チマタ〉にあがつた。
小磯首相の旧友たる山縣初男大佐が中国を視察して最近帰京し、総理にその報告を行つた。
二月十七日
予期された如く再び空襲警報が鳴る。今日の米攻撃は、一時間半おき位で機数は前日に比し少い。これは我方〈ワガホウ〉の反撃の結果ではなく、米艦隊の行動自体によるものであらう。午前中で、攻撃は終止した。
情報によると、米機動部隊は三、他に一機動部隊があり、目下、硫黄島に対し艦砲射撃中である。本土を空襲した機動部隊は六百機の直掩機〈チョクエンキ〉を擁し、そのため、我方から出撃した三十機の中、二十機は未帰還、十機は天候不良のため敵目標に到達し得ず、引き返して来たといふことである。残念ながら、制海権と局地的制空権は米の掌中に確保されてゐる。
米機動部隊は帝都周辺のわが飛行基地を隈なく爆撃した後、目下のところ西方に移動しつつある。関西地方をも一なめせんとするのであらう。今朝の攻撃により横浜港内に碇泊中の空母一隻が大破した。
風船に爆弾を積んで米本土を攻撃すといふ記事を陸軍報道部の指導で明日の各新聞紙上に発表するといふことである。これについてはすでに内奏、御裁可を得たと付言し、陸軍報道部から情報局検閲課に連絡して来た。
第一に何のための発表であるかと思ふ。風船による攻撃の実情は米国では日本より精しい〈クワシイ〉はすであるから、米国からは笑ひものになるのは間違ひない。とすると、発表のねらひは国内宣伝の意味としか受取れない。機動部隊の攻撃を受けてゐるさ中のことである。思ふに、日本もやつてゐるのだと国民を鼓舞し、それとともに、艦載機の攻撃から国民の眼をそらさんとする意図であらう。凡そ新兵器はその存在が漠然としてゐる間こそそこに夢もある。風船爆弾の如く現に大した戦果もないのを承知の上で宣伝の具に供することはこの国民の夢を破るばかりで、やがて起るべき失望の反響の方が却て大きい。国内宣伝としては意味をなさない。
第二に、風船爆弾の発表、つまりその報道の事項が何故、陸軍報道部のみの手に待たねばならないのか。風船爆弾による対米攻撃は統帥事項であらう。それは作戦であるから。然しその事実を発表し、報道することの検討は統帥事項だとは誰も考へない。小なりとはいへかういふことに依つて示されるものが、統帥権の拡張の事実である。そこに陸軍の独断が働く。
二月十八日
昨夜来、静かではあるが、機動部隊が本土近海から完全に逃避した様子はない。硫黄島に対する攻撃はなほ続行中である。
その上陸企図は一昨、十六日、午後二回に亘つたが、これを撃退したとの陸軍の情報がある。
二月一六日の項に、「中国」という言葉が出てくる。当時は、「支那」と言っていたはずであり、この「日誌」が戦後の視点から、再編集されていることをうかがわせる。
以下、用語について、注釈を試みる。「機動部隊」というのは、海上においては、空母を中心とした艦隊を指す。
「艦載機」というのは、空母に搭載された航空機のことである。二月一六日以降、帝都周辺の航空基地を爆撃した「敵小型機」というのは、本土近海にやってきた米機動部隊の空母から発進した艦載機である。機種としては、グラマンF6Fヘルキャットが中心だったらしい。日誌にも、「グラマン戦闘機」という言葉が出てくる。
「直掩機」は、護衛機ともいう。戦闘部隊を直接、掩護する航空機である。この場合は、海上の機動部隊を掩護する航空機なので、事実上、「艦載機」と同じということだと思うが、この方面には詳しくないので、断定はしない。
明日は、二・二六事件の話に戻る。