◎廣瀬久忠書記官長、就任から11日目に辞表
昨日の続きである。中村正吾著『永田町一番地』(ニュース社、一九四六)から、七一年前(一九四五年)の二月二〇日および二一日における著者(当時・国務相秘書官)の「日誌」を紹介してみたい(一六一~一六三ページ)。
二月二十日
午前、大達〔茂雄〕内相と石渡〔荘太郎〕蔵相が相次いで総理に会見した。午後になると、米内〔光政〕海相、杉山〔元〕陸相がそれぞれ会談し、廣瀬〔久忠〕書記官長は、木戸〔幸一〕内府を訪問した。かなりあわただしい動きである。
一昨日〔二月一八日〕の閣議で、地方行政協議会長の権限強化問題が論議された。問題になつた点は行政協議会長を親任官とするが、その人事権の所在如何といふことである。その閣議の空気が早くも外部に伝はつたためであらうが、今明〈コンミョウ〉以来の動きと照らして、大達内相の離任説が早くも流布されるに至る。
ところが、夕方、廣瀬書記官長は官庁庁舎で内閣記者団と会見し、「協議会長の問題で閣内に意見が対立した。それは、一、両日中に表面化するだらう、この問題の対立は根本的なものである、内閣は少数閣僚主義で行かねばならない」旨を明言した。そのため政局不安濃厚との観測が飛んだ。
夜、書記官長は総理に辞表を提出した。
二月二十一日
総理は、書記官長を慰留するわけにいかない。書記官長は、総理に対する不満から辞職したとしかとれないからである。書記官長が昨日、木戸内府に会見したのは、辞任の下相談だつたと見える。
緒方総裁〔緒方竹虎は国務相兼情報局総裁〕は正午の官邸記者団との会見で、「書記官長はどういふ話をしたのかね、問題はすでに片づいてゐるんだよ。地方行政協議会長を親任官とし、その下に軍需管理部長を置くことに決定してゐる。これが地方行政協議会のさし当つての強化策である。行政協議会長の人事権の問題だが、これは内相が意見具申して総理と相談すればよいではないか。例へば特命全権大使を任命する場合と同様である。問題が大きいといふが、小さい問題を大きく取扱つてゐるのでないのかね。何事によらず、閣議で種々の意見が出るのは当然のことである。」と答へた。
【一行アキ】
今夜、緒方国務相、大達内相、石渡蔵相がそれぞれ、小磯総理と会談した。石渡蔵相は総理大臣室から出てくると実に渋い顔をしてゐた。書記官長に内定したものらしい。
【一行アキ】
午後七時半、親任式が挙行された。石渡蔵相が国務相として書記官長を兼任し、津島寿一氏が新に蔵相に就任した。
【一行アキ】
書記官長を僅か十日程の間に再び更迭せねばならなかつた小磯総理の責任は何としても免れ得ないものがある。石渡書記官長は大物として各方面に好感を持たれた。けれども、改造につぐ改造で、この内閣の前途はもはや見きはめがついた形である。
文中、「今明以来の動きと照らして」という部分があるが、原文のまま。「今明」は、「今日と明日」の意。「今朝」の誤植ではないかという気がする。
小磯国昭内閣では、書記官長が三回変わり、都合、四人の書記官長がいた。その三人目が、廣瀬久忠であった(1945・2・10~1945・2・21)。この廣瀬久忠という人物のことはよく知らないが、警察官僚、内務官僚出身の政治家のようである。「閣内不一致」をわざわざ記者団に伝えた上、就任から一一日目で辞表を出すという行動に出ているところから見て、相当な策士であったと思われる。
明日は、再び、二・二六事件について。