礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

齋藤秀三郎と土井晩翠

2016-08-18 04:07:09 | コラムと名言

◎齋藤秀三郎と土井晩翠

 数か月前、神田の古書展で、『カムカムクラブ』という雑誌(メトロ出版社発行)の一九四八年(昭和二三)七月号(第一巻第六号)を買い求めた。表紙には、「主幹 平川唯一〈タダイチ〉/Come Come Club」とある。古書価二〇〇円。
 巻頭に近いところに、「齋藤秀三郎先生の思い出」という文章があった。筆者は土井晩翠である。齋藤秀三郎〈ヒデサブロウ〉は、著名な英語学者で、土井晩翠〈ドイ・バンスイ〉は、これまた著名な歌人・英文学者である。
 土井晩翠は、仙台の英語塾以来、永く齋藤秀三郎に師事し、師たる齋藤秀三郎から多大な影響を受けてきたことを、この文章を読んで、初めて知った。

 齋藤秀三郎先生の思出   
        土井晩翠
 メトロ出版社から先生に関する逸話等をなるべく豊富にした思出を書けとのおたのみをうけた。先生は慶応二年(一八六六)一月二日、旧仙台藩士斎藤永頼の長男として生れた。その死は昭和四年(1929)十一月九日である。十週年祭が神田の正則英語学校(1939の十二月二十日)行われた時、私は仙台から上京して祭式に列した。それから九年の歳月が経過した。当時の模様や来会者たちの追憶講演等が正則英語学校の校友会誌にのせられた。又先生の愛婿〈アイセイ〉塚本虎二君(内村鑑三の跡をつげるキリスト教名士)が其機関誌「聖書の知識」に委細に先生の逸話奇行等を嘗て記載された。是等を丁重に保存しておいたが昭和二十年七月十日、仙台市中央部の爆撃により三万巻の蔵書や切り抜き等と共に焼失した。老来の健忘は免れぬが、覚束なくもこゝに筆をとって脳裏になお残る印象を書きつける。
 平凡社の大百科事典(昭和七年第一版)によると、先生は六歳にして特に許されて仙台外国語学校に入学し、十四歳の春卒業と同時に上京、予備門を経て東京工部大学に入学、純粋化学、造船学を専攻、明治十六年(1883)卒業を前にして放校さる』とある。其後先生が仙台に帰って英語塾を国分町(元鍛冶町角)に開いたのは明治二十年頃であったろう。
 私は同塾に入って初めて先生の偉大な風貌――身のたけ六尺余――に接した。私の十六七歳の頃である。一二ケ月後刊行の予定の『晩翠放談』にある通り十四歳で小学を卒業した私は、商家の子であり、『商家に学問は無用である』という当時の習慣を厳守せる祖父の命によって中学に進むことを許されなかったが、再三切願して英語塾に入ることを許されたのである。(其前は通信教授によって独学でコツコツ英語を勉強した)そしてリーダーから初めてマコーレーの「フレデリク大王」、ジョンスンの「ラセサス」等を学んだ。先生は授業の余暇にバイロンの詩を愛誦して私に聞かして下された。(「マゼッパ」中の野馬のくだりなど)、バイロン百年忌の折、其「チャイルドハロード巡遊」を私は全訳刊行したが、遠因はこゝにある。バイロンと先生と頗る共通の点があると思う。
 英語塾創設後、先生は第二高等学校の教師になった。そして〔明治〕二十二年転じて岐阜中学に赴任、三年間在職、二十五年四月長崎の鎮西学館に、同年九月名古屋第一中学校に、二十六年七月東京に帰って第一高等学校教授に任官、二十九年十月神田区錦町に正則英語学校を創立した。そして翌年四月第一高等学校を辞し、組織英語学の完成に努力し乍ら、幾千幾万の学生を教導した。著書も非常の多数である。就中〈ナカンズク〉大正四年には多年苦心研究の成果『熟語本位英和中辞典』が刊行された。昭和十一年九州大学の豊田実教授が増補して岩波書店から発刊した本書の増補新版序に曰く、『故齋藤秀三郎氏による英文法の科学的研究は単に日本における英語研究史上特筆すべきのみならず、氏を実に世界の英語学者たらしむるのである。(晩翠申すエスペルゼンの如し)。恰も〈アタカモ〉動植物学者が無数の植物や昆虫を蒐集分類する熱心と興味とを以て氏が英語研究に没頭した事は、そのAdvanced English Lessons叢書の序からも窺われる。かかる英語の科学的研究家が多年心に描きつつあった理想的英語辞書をできる限り簡明な形で体現したものがこの熟語本位英和中辞典である…終始一貫せる科学的精神と老〈オイ〉を忘るる青年学徒的熱心とを以て先人未踏の領域を開拓した著者が津々として尽きぬ興に駆られ完成した者が本書である。(下略)』私は先生の逝去に際し二十一首の和歌を葬儀式場に献じたが、其中に
『その著述「英文法」の精や美やアルビォンの子ら面ありや否や』
『その著述「英和辞典」よページごと読みつくすべき書にはあらぬ』
『その著述「和英大字書」心血の紅きをペンに染むるが如し』
 と頌した。後者は昭和三年六月の刊行、先生が掉尾〈トウビ〉の大著述、真に驚嘆を禁じ得ぬものである。先生の崇拝者石川正通氏が近頃仙台に来た折、胸襟を開いて種々話し合ったが、中にこの大著述に言及した。『袖』のくだりに『袖すりあうも多少の縁』が“A chance acquaintance is a divine ordinance.”〔偶然の出会いは神の定め〕と訳されている。なんという恰好の訳だろう。
 日本における英語学界の真の第一人者は、かく心血をそゝぐ尽して「和英大字書」刊行の翌年菊の盛〈サカリ〉の節に麹町の本邸に逝いた〈ユイタ〉。故郷の仙台の紅葉があしたの霜をわぶる〔侘ぶる〕頃であった。
 先生が第一高等学校教授時代西片町十番地に住まわれた頃、私は第二高等学校をおえて東京大学の英文科に(明治二十七年)入学して其近くに下宿した。折に参上して先生の偉容に接し、その奨励と教導とをうけるのは多大の喜びであった。折には宴会の席にお供を仰せつかって先生の猛烈な乱暴ぶりに呆れた。其酒量は大したものであった。しかし先生の酒は其頭脳の働きを害するよりも、むしろ助長したと思われる。
 先生より教〈オシエ〉をうけ、インスピレーションをうけた秀才の数は大したものであろう。故大蔵大臣井上準之助氏は其一である。彼が二高生であった折、其将来えらくなるべきを先生が予言したのを私は親しくきいた。世界的大数学者高木貞治君は他の例である。岐阜中学で先生の教をうけた者である。ある日西片町に参上した折先生曰く『高木はばかに偉い頭脳をもってる、何とかして語学に引っこもうとしたが私は数学に向いてますとて逃げられてしまった』とて残念がられた。岐阜中学に在勤の折、先生はドイツ語を勉強し初め、例の猛烈なエネルギイを発揮してレクラム叢書を一日一冊読破した。前記塚本君の「聖書の知識」によれば、先生は新約全書のギリシャ原典を初めから終〈オワリ〉まで読破した。其他我々凡夫の思いもよらぬ先生の知識慾と努力とが同誌に載されてあった。『飢ゆる鷹の餌を追う如き熱をもて学びの道を登り行きし君』と私が賛した通〈トオリ〉である。
 かゝる偉人―世界的偉人―に親しく教をうけた事は私にとり絶大の感謝である。私の一生を支配するものである。頽齢陋習の私は今年七十八歳であるが、『老を忘るる青年学徒的熱心を以て先人未踏の領域を開拓した先生』を模範として、生ける限りは努力を続けて行く積りである。

 文中に、「その著述「英和辞典」よページごと読みつくすべき書にはあらぬ」という和歌の引用がある。最後の「あらぬ」は、「あらむ」の誤植ではないかという気がしたが、そのままにしておいた。また、最後の段落にある「頽齢陋習」は、「頽齢陋醜」の誤記または誤植ではないかという気がしたが、これも、そのままにしておいた。

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