礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平論文の紹介・その2

2016-08-22 02:59:31 | コラムと名言

◎桃井銀平論文の紹介・その2

 今月16日からの続きである。桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」の二回目の紹介である。
 引用文中の太字だからこそ」は、傍点の代用である。この傍点は、引用している原文に、もともとあったものだという。

(2) <教師としての思想・良心>
 渡辺康行はピアノ裁判原告の思想・良心を以下の3点に整理している。
「①「君が代」は過去の日本のアジア侵略と密接に結びついており、これを公然と歌ったり。伴奏することはできない、②子どもの思想・良心の自由を実質的に保障する措置がないままに、「君が代」を歌わせるという人権侵害に荷担することはできない、③雅楽を基本にしながらドイツ和声を付けたという音楽的に不適切な「君が代」を、平均律のピアノというさらに不適切な方法で演奏することは音楽家としても教育者としてもできない」
そのうえで、渡辺は、「①は、教師である「個人」の「思想・良心の自由」であるのに対し、②と③は、むしろ「教師」の職務権限や職責からの基礎づけになじむものであろう。」と区別している〔3〕。これは、藤田が着目したような思想・良心を憲法19条の思想・良心の自由の保護範囲で論ずることを難しくさせるものである。渡辺の見解はありうる一つの有力な方向性を示しているものであって、これを突き詰めれば、最高裁裁判官那須弘平の以下のような主張となり、「個人としての思想及び良心」よりいっそう「公共の利益等」の外部的制約を受けるという評価が下される〔4〕。
「個人としての思想及び良心の自由というよりも,教師ないし教育者の在り方に関わる,いわば教師という専門的職業における思想・良心の問題・・・・自らは国歌斉唱の際に起立して斉唱することに特に抵抗感はないが,多様な考え方を現に持ち,あるいはこれから持つに至るであろう生徒らに対し,一律に起立させ斉唱させることについては教師という専門的職業に携わる者として賛同できないという思想ないし教育上の意見がその典型例である。しかし,この職業上の思想・良心は,教育の在り方や教育の方法に関するものである点で,教員という職業と密接な関係を有し,これに随伴するものであることから,公共の利益等により外部的な制約を受けざるを得ない点においては,個人としての思想及び良心の自由よりも一層その度合いが強いと考えられる。したがって,生徒らに対して模範を示して指導するという点からも,制約の必要性と合理性は是認できるというべきである。」 
 一方、佐々木弘通は渡辺とは異なって、藤田反対意見が着目した思想・良心を、憲法19条に基礎づけられるものに含めて考えているが、「一種の市民的不服従論」として「「私」的な内心の保護 」とは独立した解釈論として育ててゆくことが重要であろう。」〔5〕と述べている。佐々木は、学校儀式におけるピアノ伴奏職務命令を「自発的行為の強制」型ではなく「外面的行為の強制」型に分類した〔6〕のだが、藤田が着目したような思想・良心に対する侵害は、このいずれにも属させていない。佐々木の見解は、形式的には職務命令違反であっても公権力の不正なあり方に対する協力拒否として不服従を位置づけるものであって、国家に対して個人の尊厳を対置させる原理的なあり方の一つとして十分注目に値する。
 樋口陽一は、宮川反対意見を高く評価して<教師としての思想・良心の自由>を積極的に承認する。彼は2012年の論考で以下のように述べている。
「一連の君が代・日の丸訴訟で肝心かなめの問題は、教師である個人の歴史観・世界観それ自体の自由であるより以上に―論理的には、彼個人の君が代・日の丸に関する歴史観・世界観とは無関係に―、「教育者としての」職業倫理に支えられた、教師だからこその自由ではないのか。日の丸・君が代を仮に信奉する個人であっても、教師だからこそ、本件で争われたような強制の仕方に反対しなければならない、という「信念」、価値観こそが、法によって保護されるべきではないのか。
 参加者の意思に反してでも一律に行動を強いるやり方に「自分は参加してはならないという信念ないし信条」(藤田)、「自主的に思考すること」を「大切」なものとする「教育上の信念」(宮川)。―それは、最高裁判例自身が「子供が自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような」国家の介入を斥けるという表現で、すでに述べている(前出最大判昭51[1976]旭川学テ事件判決)ことに相通ずるはずだ、ということにも注意しておきたい。」〔7〕(下線は引用者)
 樋口が高く評価した2012年1月16日最高裁判決の宮川反対意見は、多数意見が「等」と省略した部分を「及び人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者としての教育上の信念」と明示して述べたものであって、多数意見に比べれば教師であること固有の思想・良心により重きを置いているものである〔8〕〔9〕。しかし、原告の思想・良心の認定において多数意見と宮川との相違でより大きいものは、宮川が不起立等の行為と歴史観・世界観及び教育上の信念との結びつきをより密接なものと評価して、「間接的な制約」説を採用せず「厳格な基準」適用を求めている点である。また、懲戒処分の裁量審査において宮川が戒告も裁量権濫用に当たると判断した根拠の一つは、樋口の言うように「「歴史観・世界観」一般の中から「教育者としての」価値観を特に取り出した〔10〕」からではなく、全体として「その動機は真摯である」と認めたことによっている。また、宮川が強調している「教員における精神の自由」とはあくまでも<個人としての精神の自由>であって、それが<教師だからこそ>いっそう広く認められねばならないということである。

注〔3〕 「公教育における「君が代」と教師の「思想・良心の自由」―ピアノ伴奏拒否事件と予防訴訟を素材として―(『ジュリスト』1337(2007,1))p33 渡辺によれば「本稿が扱っているような事例において、教師が依拠すべきなのは、教師である「個人」の人権なのか、「教師」の職務権限や職責なのかについては、学説上多くの議論がなされてきた。」
注〔4〕 2011年6月14日の最高裁判決(「戒告処分取消等、裁決取消請求事件」)における補足意見
注〔5〕 「「君が代」ピアノ伴奏拒否事件最高裁判決と憲法第一九条論」(『自由と正義』2007年12月号)p89。関係部分は以下。
(藤田反対意見の)「以上の枠組みは、個別具体的な次元での問題把握を志向する点において「外面的行為の強制」型の解釈論と共通する。だが議論そのものは、「外面的行為の強制」型の解釈論と異質なものを含む。
 それは何より、上告人の内心として、「『君が代』に対する評価に関し国民の中に大きな分れが存在する以上、公的儀式においてその斉唱を強制することについては、そのこと自体に対して強く反対するという考え方」こそが重要であり、そういう内心は憲法的保護を受けるのではないか、と論じる点である。これは公的領域における不正義には従えないとする、「公」を志向する市民としての内心であり、一種の市民的不服従論であると理解できる。もちろんこれを基礎づけるのに憲法十九条を引き合いに出すことは可能であろう。だがこれに対して憲法第十九条論の「外面的行為の強制」型の解釈論では、「私」的な内心の保護に眼目がある。・・・・藤田反対意見の議論を、独立した解釈論として育ててゆくことが重要であろう。」
注〔6〕 「「人権」論・思想良心の自由・国歌斉唱」p68(『成城法学66号』2001年)
注〔7〕 「価値問題を調整する知慧」(『法学セミナー』687。2012-04)p5
注〔8〕 2012年1月16日判決(前出)の多数意見では原告の思想・良心を以下のようにまとめている。
「第1審原告らが本件職務命令に従わなかったのは、第1審原告らの歴史観ないし世界観等において、「君が代」や「日の丸」が過去の我が国において果たした役割が否定的評価の対象となることなどから、起立斉唱行為や伴奏行為をすることは自らの歴史観ないし世界観等に反するもので、これをすることができないと考えたことによるものであった。」(「理由 第1 本件の事実関係等の概要 2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次の通りである。」の(4))
 また、「第3」の被告側の上告受理申立理由についての言及で「不起立行為等の動機、原因は、当該教職員の歴史観ないし世界観等に由来する「君が代」や「日の丸」に対する否定的評価等のゆえに、本件職務命令により求められる行為と自らの歴史観ないし世界観等に由来する外部的行動とが相違することであり、個人の歴史観ないし世界観等に由来するものである」とも述べている。
 なお、同じく宮川が反対意見を書いた2011年6月6日判決(原告側の呼び名は「嘱託採用拒否撤回裁判(一次訴訟)」。原告13名(不伴奏者はなし)。)の多数意見は「起立斉唱行為を拒否する前提」として個人としての歴史観・世界観から教育者としての考えまで多様に6点にわたって認定した上でそれらを総括して「「日の丸」や「君が代」が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」と述べている(理由 第1の「2 原審の適法に確定した事実関係等の概要は、次の通りである。」の (6))。一方宮川の反対意見は原告の思想・良心についての多数意見の認定を是とした上で総括的には「歴史観ないし世界観及び教育上の信念」(下線は引用者)とまとめている。翌年1月16日判決もそうだが、宮川はこの点での多数意見との相違を主張しているのではない。
注〔9〕 樋口は「教師である個人の歴史観・世界観それ自体の自由であるより以上に」という(p5)が、それは樋口の考えであって宮川自身の考えではない。この点は宮川反対意見全体を読めば明瞭である。
注〔10〕 「価値問題を調整する知慧」p4 宮川反対意見からはこのようには読み取れない。樋口自身p8注記2)では以下のように言い直している。
「但し、藤田裁判官が「・・・・・・後者の側面こそが、本件では重要」とするのに対し、宮川裁判官は、「及び」という形で、二つの事柄を並列においている。」
 樋口は<教師としての思想・良心の自由>を<裁判官の思想・良心の自由>と同質のものとして考えているようだ(p5)。原告教師の立場からは受け入れやすい主張であるが、両者の職務の相違や、国民の教育権説批判の中で議論されてきた<学校と教師の権力性>をどのように踏まえた主張なのか、さらなる展開を待ちたい。【次回に続く】

* 都合により、明日から数日間、ブログをお休みいたします。

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