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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

尾崎光弘さんによる書評三件(その2)

2016-08-27 05:12:25 | コラムと名言

◎尾崎光弘さんによる書評三件(その2)

 昨日の続きである。本日は、『雑学の冒険』に対する書評(二〇一六年八月二二日)を紹介する。

歴史の多様な側面が見える 礫川全次著『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)

 前回紹介した礫川全次著『独学の冒険』は、いわゆる独学の著名人が登場し、その動機・研究歴・その成果からみて、本格的な段階としての「独学」事例集だと位置づけることができます。それゆえに私に「独学の覚悟」がありやなしや、を迫る一冊であったことを述べました。今回取り上げたいのは、二作目の『在野学の冒険』(批評社 二〇一六)ではなく、三作目の『雑学の冒険』(批評社 二〇一六)です。「独学」の本格性と比べると、「雑学」の特徴がよく見えて来るからです。まず帯に注目したい。カラーで古書の表紙が紹介されています。眼を凝らして書名を確かめ中身を知りたくなります。だいたいにおいて戦前戦後の古書の表紙は直截なものが多い気がします。
 さて、この本の中心テーマは、第三章「国会図書館にない100冊の本を紹介する」にあります。著者は、この章の原稿を『独学の冒険』に収録するつもりであったと書いていますから、著者の中では「雑学」が「独学」と関連づけられていたことがわかります。この本を一言で評すれば、歴史の多様な側面を見せてくれる点にありますが、その本体がこの第三章です。「1 私家版・非売品など(一三冊)」からはじまって、「10 独習書、参考書など(六冊)」「11 その他(九冊)」までの百冊を十一グループに分類する手際も見事なものだと思います。分類項目を見ていると、「国会図書館にない本」というのは、実は図書館側が架蔵の価値有りと認識できなかったものが少なくないのではないか。また全部が古書ですから発行年と一緒に紹介文を読むと、社会の歴史とはこんなに多様な側面をもっていること、歴史はこんな細部にも宿っていることに小さくない驚きを覚えます。私が特に注目したのは、「独習書、参考書など」にその時代の世相が如実に表れるというところです。そこには「文検のしくみ、受験生の意識や生活など貴重な史料と言える」(一七六頁)という著者の視線がなければ、国会図書館とて架蔵しないのも無理がないと思えますが、実はここが感度の働かせどころだと思い繰り返し読みました。「感度」というのは、誰も顧みない書籍にこそ大事な事実が隠されていることに気づく感性のことです。何か気づきそうなくだりに出会うことはとても楽しい瞬間なのです。残念ながら、いまのところ明確な形ではやってきませんが、アンテナは微動しています。
 このように考えると、あまり人が顧みない古書から何が見えてくるかという紹介文は実にありがたいものです。これまであまりお目にかかったことがない種類の文章です。そういう観点でいうならば、冒頭の「Q&A──なぜ、国会図書館にない本を問題にするのか」、第一章「たとえば、どんな本が国会図書館にないのか」、第二章「国会図書館にない本は、どのようにして生じたのか」などの章も、私に取っては初めて知る議論ばかりですが、分からないことと、分かるところをきちんと区別して語る文体は実に小気味いい。世の中にある「書誌学」という学問分野がこのようなものならば、大いに興味がそそられるところです。
 もう一つ、第四章「書物を愛する方々へのメッセージ」はこの本のなかでも特筆に価するのではないかと思います。「1 国会図書館にお勤めの方々へのメッセージ」、「2 公共図書館の閲覧サービスについての展望」、「3 古書業界で仕事をされている方々へのメッセージ」、「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」です。該当する人間グループへのメッセージを読んでいただければ、いかに実用的で為になることが書かれているかお分かりいただけると思います。私個人についていえば、やはり「4」のメッセージ、蔵書の処分の仕方です。死んだら子供たちが処分してくれるのではないかと漠然と思ってきましたが、書物の価値がわからない場合にはどのような処分も期待することができないことを知りました。特にここで引用して心覚えにしておきたいのは、以下のことです。「4 読書家・蔵書家・古書愛好家の方々へのメッセージ」から紹介します。

 三 どうしても処分してほしくない本、家族がその価値に気づいていないであろう本などがある場合には、家族・友人・研究者・古書店主などに、その存在を知らせておきましょう。その際、「この本は国会図書館にもない」ということを強調するのも、ひとつの手です。
 四 生前に、自らの蔵書を縦横に駆使して、自分の研究を感性させ、出版、専門誌掲載などの形で、世に問いましょう。いずれは散逸する「蔵書」への感謝の形としては、これが最高の形ではないかと、私は考えます。
 五 専門的な研究などは、とても無理だという場合、せめて、ブログなどを使って、古書に関するエッセイなど発表されたらいかがでしょうか。古書にまつわる思いで、蔵書から得た珍しいネタの紹介、珍本発掘の報告など、書くことはいくらでもあるはずです。これもまた、「蔵書」への感謝の形のひとつと言えると思います。

 著者の礫川全次氏が、かつて私に語ってくれた古書に関する名言を二つ覚えています。一つは「自分の研究フィールドは古書店」という言葉です。これは以前にも紹介しました。二つは「古書は共有財産」という言葉です。私はつい最近まで自分の本は私有財産という観念が強く、つい書き込みをしながら読む癖を矯正できないままで来ました。しかし著者の「蔵書」への感謝の形、そして「古書は共有財産だよ」という言葉を揃えると、やはりまちがっていた思わざるをえません。
 さて、最初に戻って「独学」と「雑学」の対照を考えます。

 独学・・・概念的 本格的 最終的 全体的 本質的 明言的 専門的 客観的 普遍的・・・
 雑学・・・感覚的 初歩的 入門的 断片的 隙間的 示唆的 趣味的 主観的 個別的・・・ 

 今日はこんなところですが、上の独学と雑学の対照を見ながら、両者の間に「在野学」を挟んでみると、どう位置づけることができるでしょうか。思うに、在野学の中間的性格です。次回はこれを考えます。

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