◎ソ連政府の正式回答は「明八日夜半」
「時事叢書」の第九冊、大屋久寿雄著『終戦の前夜――秘められたる和平工作の諸段階』(時事通信社、一九四五年一二月)を紹介している。
本日は、「ソ連の回答即ち宣戦布告」の節の後半を紹介する(二四~二五ページ)。
それも、そのために秘密が絶対に保たれ得るといふならば恕す〈ユルス〉ベき点もある。だが、わが方が自らの口からすべてを告げると否とに拘らず、この事態下に特使として近衛公ほどの「大物中の大物」を態々〈ワザワザ〉モスクワへ派遣したいとの意思表示をしたことそれ自体がすべてを自白して余りあることなのである。現にポツダム会談の開会に前後して、早くもアメリカの諸報道機関は、日本がソ連に和平斡旋方を申入れたとの説を半信半疑のうちにも可成り〈カナリ〉詳細に伝へ始めてゐた。
些か結果論の嫌ひはあるが、今から考へると返す返すも残念な「愚かさ」ではあつた。
〔七月〕二十日夜の最高戦争指導会議で決定された事態は二十一日佐藤大使に訓電された。しかもこの訓令に基き、佐藤大使からその趣旨をロゾフスキー氏に伝へたのは、いかなる事情が介在したかは不明だが、実に中三日置いて二十五日のことであつた。
翌二十六日にはポツダム宣言の発表である。「条件は近衛公に直接聴かれたし」も何もなくなつてしまつたわけだ。敵は日本に対する「無条件降伏の条件」をそこに堂々と宣言して、これ以外の条件では戦争終結の可能性絶対になきことを世界に公告してしまつた。残された問題としては、日本に果してこれを受諾する意思ありやなしやだけとなつた。
事態ここに到つては、実はもはや特使派遣の必要すらほんたうはなくなつてゐたのである。日本に許されることはただ一言、イエスかノーかのいづれを選ぶかといふ二者択一のみであつた。
陛下の御意思は既に明かとなつてゐる。当時なほ不明であつた敵側の意向もいまでは明瞭となつた。ソ連を介してなほ工作の余地ありやなしやの問題もかくて自ら明かになつたと見なければならない。
外務省では、事ここに到つてはポツダム宣言を受諾する以外に方法なしと判断するに到り、鈴木首相をはじめ、最高戦争指導会議の人々も概ね同意見であつたが、ここに断乎反対を唱へたのは軍令部総長豊田副武海軍大将であつた。そして豊田総長の意見はやがて参謀本部によつても支持されるに到つた。かくて廿九日に至り、鈴木首相の「ポツダム宣言無視」声明が、四囲の国内情勢上已むなし〈ヤムナシ〉として、妙に割り切れぬ歯切れの悪さで発せられることとなつたのである。「拒否」といはずに「無視」と言つたところに帝国政府としては一抹の味を残したつもりであつたらうが、米・英側はさやうな小刀細工には一切留意しなかつた。彼らは鈴木首相の声明をもつて「日本はポツダム宜言を拒否した」「日本は与へられた和平への最後の機会を自ら抹殺した」と理解し、さう宣伝した。
帝国政府としてはかくしつゝも、二十一日の回訓に対するモスクワからの回答を一日千秋の思ひで鶴首してゐたのであるが、ソ連政府は依然として何らの意思表示もしては来ない。
八月五日にはスターリン、モロトフ両氏がポツダム会談からモスクワに帰還した。至急何分〈ナニブン〉の回答を得よとの訓令が矢の如く佐藤大使のもとに飛んだのである。
八月六日には驚天動地の事件が広島に起きて世界を震撼せしめた。いふまでもなく原子爆弾のそれだ。
八月七日、待望の回答がソ連政府から到着した。曰く「明八日夜半、ソ連政府の正式回答をなすべし」
八月八日夜半の回答はなされた。「ソ連の対日宣戦布告」そして即刻、満・ソ国境ではソ連軍の一斉進撃が開始された。
八月九日、原子爆弾の第二回目が長崎を潰滅させた。
そして、そのあとは、国民が今日なほ腸を捻じ切る悲涙とゝもに記憶するとほりの経緯で、わが国の無条件降伏受諾となつたのである。従つて、そこには付加すべき蛇足とてももはや大してない。しかし、終戦のできごとの中で、今なほ世間に明かにされてゐない二、三の重要事件について、ここに些かこれを補つておかうと思ふ。
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