礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

永田鉄山軍務局長と内閣調査局

2016-10-17 04:19:45 | コラムと名言

◎永田鉄山軍務局長と内閣調査局

 昨日の続きである。本日は、梨本祐平の「社会大衆党解党秘史――近衛新体制の捨石となつた麻生久」(『日本週報』第四八三号、一九五九年六月四日)から、「軍、官僚とのむすびつき」の節を紹介してみたい。

 軍、官僚とのむすびつき
 昭和九年〔一九三四〕一月、岡田啓介内閣の下に、林銑十郎大将が陸相となり、永田鉄山少将が軍務局長となつた。
 永田は憲法の枠の中で、当時澎湃【ほうはい】として横溢〈オウイツ〉していた、日本革新の問題を、建設的にとりあげ、近代軍と、近代国家の創設という、明治、大正時代からの課題を解決しようとし、各方面と連絡して、さかんに、調査、研究を重ねていたが、結局、現行憲法に抵触しないで、国家革新を実現する方法は、陸軍大臣を通じて、軍の国策上の主張を、閣議で採用させること以外にはないという結論に達した。
 しかし、国策は職業軍人などにできるものではない。ここにおいて、永田は国家総動員の線に沿いながら、日本の知能と人とを集めて、国家の革新をはかる制度と、組織とを整えようとし、その結果、創設されたものは「内閣調査局」であつた。
 内閣調査局には、内務省の後藤文夫、吉田茂〔外交官の吉田茂と同姓同名の別人〕、唐沢俊樹、資源局の松井春生〈ハルオ〉、農林省の田中長茂〈ナガシゲ〉、和田博雄、商工省の岸信介、小金義照〈コガネ・ヨシテル〉、外務省の白鳥敏夫など各省の秀才が動員され、軍よりは鈴木貞一〈テイイチ〉大佐が調査官として入つた外は、軍人の政治活動を禁じて、総べて〈スベテ〉はこの合法的な行政機関で取扱うことにした。
 各省から選抜された調査官のうち大蔵省の毛里英於菟〈モウリ・ヒデオト〉、迫水久常〈サコミズ・ヒサツネ〉、商工省の美濃部洋次の三人が政治的な部門を担当し、次第に中心的な存在になつたが、毛里の義兄は、社大党〔社会大衆党〕代議士の亀井貫一郎であり、迫水の岳父は岡田首相であつて、毛里、迫水は、これらと、永田軍務局長の間を、絶えず連絡した。当時、軍務局にあつて永田の懐刀となつていたのは、新庄健吉主計少佐であつた。
 新庄は陸軍より東大経済学部に留学した秀才で、軍人には似あわない近代的な政治感覚も鋭く、永田の政治的な相談相手になつたり、毛里、迫水、美濃部などの連絡や斡旋〈アッセン〉をしていたが、本庄や若き調査官たちが、いかに秀才であつても、内閣調査局で立案した構想なり、計画なりを実施するためには、どうしても政党を経て、議会を通過しなければならない。ここにおいて、軍とタイアップできる政党の再編成が必要となつてきた。

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