◎「近代資本主義の精神」の特質とは
昨日の続きである。有斐閣の経済学名著翻訳叢書の「刊行の辞」には、「訳書の巻頭には必ず本会顧問又は翻訳者の執筆に係る原著者の略伝、及び原著の学的意義を詳述する序説を掲載する」とあった。
事実、梶山力訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の巻頭には、梶山力による「訳者序説」というものが置かれていて、これが六九ページ分もある。文字通り、「詳述」されている。
これを、すべて紹介するわけにはいかないので、今回は、「訳者序説」のうち、「五 本書の内容」のみを紹介したい。「五」だけで八ページあるが、本日、紹介するのは、最初の三ページ弱。
五 本 書 の 内 容
この論文においてウェーバーが論じようとした問題の結論は、左程理解しがたいものでは決してないのであるが、その論証の過程は、必ずしも凡て〈スベテ〉の読者にとつて理解しやすいものとは云はれない。そこで私は次に簡単に、本書の内容の概略を紹介しておかう。之によつて多くの読者の本書を理解する上に、幾分の便宜となれば幸ひである。
「資本主義」の名でよばるべき文化は、歴史上いたる所に(例へばバビロン、支那、ローマ等に)存在した。西欧に起つた近代の資本主義のみが資本主義の全部ではない。がしかし、近代資本主義は(あらゆる他の歴史的事象と同様に)一の「歴史的個体」であり、従つて、他の資本主義(例へばバビロン、ローマ等の資本主義)とは全然異るところの特質をもつてゐる筈である。第一に近代資本主義の「制度」が他の資本主義とは異る特質をもつてゐることは勿論である。が、それとともに近代資本主義の「精神」もまた、他とは異る特質をもつてゐる筈である。この「近代資本主義の精神」の特質は一体何であらうか。いかなる歴史的源泉からそれは生じたのか。その問題の解明に貢献しようとするのが、本論文の目的である。
この目的に到達するために、先づウェーバーは最も手近かなものから始めてゆく。それは彼の門下生(オッフェンバッハー M. Offenbacher)の研究であつて、これによればドイツにおけるカトリック教徒はプロテスタントに比して、資本家・高級労働者等、近代資本主義経済の中心的要素となる場合が遥かに少い。この事実に対しては、さまざまの解釈の仕方があり得るけれども、しかし様々の他の事情を綜合して考へるなら、結局プロテスタントとカトリック教徒との間のかかる相違は、両者の信仰の内面的、永久的特性に基づくものとしか考へられない。しからばプロテスタンティズムの信仰的、思想的内容のうちのいかなるものが、その信徒の経済生活に対するかゝる態度を生ぜしめるのであらうか。このことを知るためには、我々は基督教、殊にプロテスタンティズムの思想的内容について検討を進めなければならないのである。(以上第一章第一節、本書本文一~二一頁)
が、その前に先づ一二の問題、殊に当面の問題たる「近代資本主義の精神」とは何か、について一応説明しておかねばならない。とはいへ、資本主義の精神の本質の何であるかは、それの歴史的起源が明確になつた後において、始めて充分に明白となる。蓋し社会科学における認識は、歴史的認識に外ならぬからである。それ故、近代資本主義精神の何であるかは、本研究の最後に至つてはじめて明瞭となるのである。しかし便宜上、こゝにその内容を幾分明らかにしようとするのであり、従つてそれは未だ科学的検討を経ない、直観的な例示としてゞある。その方法として、ウェーバーはこゝにベンジャミン・フランクリンの思想をとり上げる。フランクリンの著「若き商人への戒め」(Advice to a young tradesman)に現はれてゐるところの、職業労働を義務とする倫理的性格こそ、近代資本主義精神における特徴的な要素であるとウェ―バーは主張する。これに関連して更に、資本主義以前の時代の経済生活を支配した精神、即ち伝統主義」精神についても、一応例示的に説明を加へる。近代資本主義の精神が、その発生・成長に際して戦はねばならなかつた敵は、かゝる「伝統主義」精神だつたのである。こゝに見たフランクリンの精神の中にも、宗教的信仰との関連は明らかに看取される。かくしてウェーバーは、いよいよ資本主義精神の起源を探るべく、過去における基督教的諸思想の分析へと進むのである。(以上第一章第二節、本書本文二二~六九頁)【以下、次回】