◎社会大衆党と三多摩壮士の接点
梨本祐平の「社会大衆党解党秘史――近衛新体制の捨石となつた麻生久」(『日本週報』第四八三号、一九五九年六月四日)を紹介している。本日は、その三回目(最後)で、「三多摩壮士を脱得する」の節を紹介してみたい
三多摩壮士を脱得する
昭和十二年〔一九三七〕の第七二議会の本会議において、亀井〔貫太郎〕は、約二時間半にわたつて、社大党〔社会大衆党〕が、従来の綱領を転向しなければならない、客観的な情勢に立ちいたつていることを、次のような要旨によつて演説した。
「階級闘争によつて、資本主義を改革せんとする、過去の社会運動の理論は揚棄され、国家及び民族の生々発展が、資本主義の改革をその中〈ウチ〉に含まねばならぬという、全体主義の理論が、これにとつて代らねばならぬ」
翌十三年〔一九三八〕十一月、社大党大会において、亀井の発言せる、社大党の転向は、公式に承認された。
このころの麻生〔久〕は、亀井が前年、ナチス・ドイツの視察から持つて帰つた「国民組織の党」という考え方を、全面的にうけいれていた。
国民組織の党とは指導者原理によつて、利益社会的な自由主義社会の諸団体を、協同社会的な団体に、組織しなおすという、社会改革の理論を指すものであつた。
この国民組織の党による社会的変革こそ、旧い〈フルイ〉政治観念をもつた、既成政党を整理するにふさわしいものであると、麻生は「国民組織の党」理論を確信したのであつた。
たまたま、このころのある日、麻生は、三多摩の壮士、中溝多摩吉〈ナカミゾ・タマキチ〉の来襲をうけた。
中溝は、三多摩を地盤とする、政友会院外団の顔役であつたが、あるとき、師淑する先輩秋山定輔〈テイスケ〉から、時局の容易ならざることと、政党の腐敗無力は、時局担当の能力がなく、国家存亡の危機に臨んでいる今日、政党は解党して、出直すべきであるという理論を、秋山一流の、人の心をわきたたすような魅力のある説得力をもつて注ぎこまれた。元来、直情径行の中溝は、政党解消に一身を賭す〈トス〉べしとして、昭和十三年〔一九三八〕二月、〔第七三〕議会の開会中、三百人の壮士を率いて、政友会、民政党本部を占拠して、政党解消を要求し、さらに、社大党本部をも襲つて麻生を面詰した。
麻生は、得意の熱弁をふるつて、「国民組織の党」理論を説明し、中溝を三昼夜にわたつて説得した。根が単純な中溝は、政友会や民政党などには見られない、詩情をたたえた麻生の人柄と、その理論にすつかり敬服し傾到して、麻生を伴つて秋山と面会させた。
秋山は、先代の近衛秀麿〈コノエ・ヒデマロ〉公爵時代より、近衛家と接近し、当時、文麿〈フミマロ〉公の政治的顧問のような立場にあつたが、秋山も、麻生の熱情に動かされて、その国民組織の党理論を支持し、麻生を近衛公と会わせたりした。
ここに「三百人の壮士」とあるのが、「防共護国団」のことであろう。
梨本祐平によれば、防共護国団による政友会本部、民政党本部襲撃事件は、政党解消を要求する行動だったという。そうした一面は否定できないが、その時期からして、「国家総動員法」の成立を目指し、両政党に圧力をかけることが、直接の目的であったと見るのが妥当であろう。
梨本祐平の「社会大衆党解党秘史」は、このあとも、興味深い記述が続くが、明日はいったん話題を変える。