礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陸奥爆沈は永久の謎となろう(北上宏)

2017-04-26 04:30:36 | コラムと名言

◎陸奥爆沈は永久の謎となろう(北上宏)

 書棚の整理をしていたら、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌が出てきた。
 本日は、この雑誌から、「軍艦・陸奥爆沈の真相」という文章を紹介してみよう。

軍艦・陸奥爆沈の真相  北上 宏【きたがみ ひろし】

 陸奥・長門と謳われた大戦艦が理由なくして突如消え失せた――終戦まで一言も語ることのできなかつた怪事件の原因は何か? 筆者は元海軍情報参謀

  濃霧の中に大爆音
 アッツ島玉砕、山本〔五十六〕元帥戦死と次々に悲報が伝わり国内各部にようやく悲壮な空気がみなぎり始めた昭和十八年〔一九四三〕六月八日正午ごろ、広島湾南部の連合艦隊秘密泊地に戦艦の主砲を打つたような大音響が響きわたつた。泊地にいた数隻の軍艦は素破〈スワ〉何事と色めき立つたが、折からの濃霧に包まれて何事が起つたか知る由も無かつた。ほど経てから軍艦扶桑の短艇が切断した陸奥の艦尾と多数の乗務員が海上に漂つているのを発見して、はじめて同艦の爆沈を知り直ちに遭難者の救助を開始したのであつた。
 軍艦陸奥は長年のあいだ日本海軍最新鋭の戦艦として宣伝せられていた関係もあり、同艦の沈没は既に傾きかけていた国民の戦意に重大な影響を及ぼすものと考えられたので一切発表されないことになつた。当時の霧は千米しか離れていなかつた扶桑艦上からも何事も認められなかつたほどひどいもので、あたかもこの事実を覆いかくすようであつたが、その後のこの付近の取締りは厳重をきわめ、沈没のちの字でも口に出そうものならば忽ち憲兵に連れて行かれるという有様であつた。殉職者の発表も全部他の艦に転勤の手続をとつてから行うという非常手段がとられた。海軍部内でもM事件と名づけ陸奥爆沈などとは一切言わない程の注意が払われたので、終戦までこの事件を知らない人が多かつた。
 かくて陸奥の沈没は厳秘に付せられたまま終戦を迎えたが、昭和二四年〔一九四九〕に至つて連合軍司令部許可のもとに同艦の搭載物資が引揚げられることとなり、酒やビールが飲めるか、重油を何うして取り出すかとかいうような事が話題となつた。後に至つて許可以外に船体の一部を破壊して引揚げたということが国会の問題となり、今なお裁判沙汰となつている。一方これに伴つて遺骨の引揚げが問題となり、内海の水深四十米に過ぎないところに何百という遺骨が其のまゝ残されているということが各方面で論議の的となつた。これ等の問題に伴つて同艦の沈没状況やその原因が興味をよび、中には水兵放火説や海軍士官恋のさやあて等という見て来たような話まで伝えられるに至つた。
 思えば軍艦陸奥はその生立ちから問題の多い艦であった。大正七年〔一八一八〕六月横須賀工廠で起工せられ丸二年後の大正九年〔一九二〇〕五月三十一日に進水したが、当時色々の面で世の注目を集めていた大本教で「進水出来ないゾヨ」と予言したと伝えられた。華府〔ワシントン〕海軍軍縮会議においては、事実上竣工していたにも拘らず未成艦扱いを受けて危く廃棄処分になろうとした。加藤〔友三郎〕全権をはじめ関係者一同のあらゆる努力にもかゝわらず、同艦の保有を認めさせるためには英米両国に未完成又は未起工の戦艦を二隻ずつ建設することを許さなければならなかつた。
 これと云うのも当時四十糎砲を搭載していた戦艦は世界中に我が長門、陸奥と米国のメリーランド号しか無かつたためで、条約の結果米国はコロラド、ウェストバージニヤの二隻の建造を続け、英国はネルソン、ロドネーの二隻を新たに起工することとなつたが、これ等は何れも四十糎砲塔載艦である。
 陸奥はその後大改造を行い長さを九米伸ばし幅を三米も拡げ、前の煙突を曲げたり後には一本にしたりして外観も大分かわつたが、長い間日本海軍最新鋭戦艦としてニュース映画や宣伝映画で国民に親しまれて来た。
 いや沈没後も大きな海戦が有るごとに軍艦マーチに送られてスクリーンの上で活躍していた。
  三式弾という花火のような弾丸
 さて、当時陸奥は第二戦隊の二番艦として第一艦隊に属していたが、第一艦隊はミッドウェイ海戦に参加した他はほとんど内海を出ること無く訓練を重ねながら待機していた。一番艦即ち艦隊旗艦の長門は呉軍港で小修理を終りこの日午後一時頃柱島錨地〈ハシラジマ・ビョウチ〉にもどることになつていた。
 長門不在中、呉との電話が取りつけてある旗艦の浮標に繋留していた陸奥は、〇時半転錨の予定で機関科のものは既に固有配置について試運転を行つており、兵科のものも早目に食事を終り、転錨の準備にかゝろうとしていた。
 十一時五十八分(十二時五十八分という者もある)突然後部三、四番砲塔付近から「ブウー」という騒音と共に、丁度主砲を発砲したときのような白褐色の焔が噴出し、瞬時に大爆発を起し艦体はこゝから二つに切断され、前部は右舷に転覆約二十秒で沈没してしまつた。後部は三十度くらい傾斜して浮いていたが翌日午後一時頃遂に沈没した。
 千三百名の乗務員の他に土浦航空隊の予備練習生約二百名が艦隊実習のため一時間前に乗艦したばかりであつたが、生存者は三百五十名計りで艦長以下千百四十余名は艦と運命を共にした。
 その後約一カ月にわたり遺体捜索を行つたが百六十体の遺体を収容し得たに過ぎなかつた。
 陸奥の爆沈を知ると艦隊司令部始め各艦においては敵潜水艦内海侵入の虞〈オソレ〉ありとして警戒を行つたが、その兆候は認められず、潜水夫を入れて沈没した艦体を調査した結果も魚雷や機雷などによる外部からの爆発の跡は発見されなかつた。
 沈没の原因が内部にあるということになつたので、特に査問会を設けてその原因を徹底的に調べることとなり凡ゆる〈アラユル〉方面から検討が加えられた。
 弾火薬庫の爆発とすれば先ず考えられるのは装薬の自爆である。装薬即ち弾丸を打ち出すための火薬の自燃、自爆という問題は明治時代に無煙火薬を使用するようになつてから各国海軍ともに悩まされた問題であつた。
 ダイナマイトと綿火薬をねり合せたような無煙火薬は温度が高くなると分解作用を起して不安定になるので、軍艦の火薬庫は日露戦争の時代から冷却装置を備え近代ビルよりも完全なエア・コンディションを行つていた。そのうえ温度を外から計る機械、温度がある程度以上となるとベルが鳴る警報器や氷を撒く装置、ハンドル一つで急に水を張る仕掛けなど種々の工夫が凝らされていた。
 しかし明治三十六年〔一九〇三〕に日本海軍が無煙火薬を採用すると、三十九年〔一九〇六〕には日露戦争中連合艦隊旗艦であつた三笠が佐世保で火薬庫自爆のため沈没するし、四十一年〔一九〇八〕四月には日清戦争中連合艦隊旗艦であつた松島が遠洋航海の帰途台湾の馬公〈マコウ〉で爆沈しあたら多数の若い候補生の命を奪うという事故が起つた。
 しかし無煙火薬の採用によつて大砲の射程が増大し、命中精度も格段によくなつたので、この使用を止めるわけには行かないから、極力安定度の向上に努めたので、大正六年〔一九一七〕横須賀軍港で沈没した軍艦筑波、大正七年〔一九一八〕徳山湾中で爆沈した軍艦河内を最後としてこの問題もあとを絶つに至つた。
 陸奥の場合は火薬の温度上昇を知らせる警報器も鳴つていないので、装薬の自爆ということはほとんど考えられないが、ここに関係技術者の頭にピンと来る問題が一つあつた。それは三式弾という新しい弾丸の自爆の問題である。
  爆 沈 の 真 相 は?
 戦艦や巡洋艦の主砲を対空射撃に使うために作つた零式弾という榴散弾の効果が充分で無いので工夫したのが三式弾で、時限信管で弾丸を破裂させるとゴムを主体とした焼夷剤を詰めた多数の弾子が三千度という高熱を発して燃えながらばら撒かれ、その弾子も最後に破裂するという丁度花火のようなものである。
 三式弾という名は二千六百三年型という意味で昭和十八年〔一九四三〕兵器に採用されたことを示しているが、前年の十七年春実験が一応成功すると出来上るのを待つて前線に向う艦から順順に積込んだ。十七年〔一九四二〕十月十三日夜戦艦金剛がガダルカナル島に打込んで飛行場を火の海としたのは実にこの弾丸であつたが、夜などこの弾丸の射撃を見ていると両国の川開き其のまゝで実に綺麗なものであつた。
 しかし戦局が急迫していて、実用を急いだため、平時のような貯蔵試験を行つていなかつたので、NHKの二十の扉式に云うと、鉱物と植物を混ぜ合せてあるこの焼夷剤は変質する虞が無いという確信が無かつたのである。早速沈没している艦体の中から三式弾を引上げて色々検査を行つたが、変質の徴候は認められなかつた。
 しかし一時は各艦の三式弾を卸したり改造したり大騒ぎとなつた。
 この外に人為的に火薬を点火することも考えられるが、火薬はいざ火を付けるとなると案外簡単には爆発しないもので、警報器が鳴る間も無く爆発させるためには、時限爆弾を使用するか、火薬を貯蔵するとき入れておく火薬罐の蓋を開けて小銃か拳銃の空砲を打ち込むようなことが必要で、毎日少くとも二回は必ず掛りのものが戦闘配置につくし、その他のときは必ず鍵をかけ番兵を配してある弾火薬庫でこのようなことをするのは普通では考えられない。
 大正の始めごろ上官に恨〈ウラミ〉をいだいていた下士官が、火薬庫に電線を引き込んで電気火管を発火させるような細工をしたのを爆発前に発見したという話を聞いたことがあるが、これは毎日戦闘配置につくというようなことの無い平時の場合である。陸奥の場合査問会でこの点についても充分調査したがそれらしい兆候も発見されなかつた。
 結局査問会の結論は三式弾の自爆らしいということになつたが確実なことはわからないまゝに終つた。
 問題の後部砲塔の付近は艦体が切断されるまでに破城されていて、三番砲塔は左舷、四番砲塔は右舷に飛び散つているという有様で、国とサルべージ業者との間の繋争事件が解決し艦体が十数年振りで引揚げられて陽の目を見る日が来ても、恐らく爆沈の真相は判明しないであろう。
 超戦艦武蔵、大和が出来るまで二十年近くの間日本海軍の最新鋭戦艦として、国民の連合艦隊いや海軍に対する信頼の象徴となつていた軍艦陸奥は、進水のときから何かと暗い影を伴つていたが、今次の大戦に際してもほとんど実戦に参加すること無く、濃霧に包まれたまゝ僚艦に看とられることも無く消えて行つたが、その原因もまた永久の謎となろうとしている。
 第一艦隊の他の艦、長門、扶桑、山城などが陸奧沈没後間も無く南方戦場に進出して、それまでの訓練の成果を示す機会を得たことから見ても、何処までも不運な艦であつたと云う外は無い。
 いやその上に、沈没後の今日まで剥ぎ取り事件などという不明朗な問題で名を上げているのである。
 ただこの上はこれ等の事件が解决し、艦体が引揚げられて、新しい鉄として更生し、平和的建設に貢献すると共に、艦内に残つている遺骨が引揚げられて然るべきところに埋葬される日の一日も速かに来らんことを希つてこの稿を終りたい。

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