◎将官級による三月事件、佐官級による十月事件、尉官級による二・二六事件
昨日に続き、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌にある記事を紹介してみたい。
本日、紹介するのは、「雪の首相官邸の秘密」という文章である。筆者は、真崎甚三郎(一八七六~一九五六)の実弟・真崎勝次(一八八四~一九六六)である。
文中、太字は原文のまま。
雪 の 首 相 官 邸 の 秘 密 真崎勝次【まざき かつじ】
岡田啓介首相は当夜官邸にいたか? 又は赤坂の料亭にいたか? 筆者は事件の黒幕といわれた真崎甚三郎大将の実弟にして元海軍少将、現・自民党代議士
真崎甚三郎首班内閣説
昭和十六年〔一九四一〕春、自分は故牧野伸顕伯の義兄に当る秋月左都夫〈アキヅキ・サツオ〉氏に会つた。それは当時住友の重役であつた鷲尾〔鷲尾勘解治か〕という人が、自分を訪問して言うのに、『秋月老人は博覧強記で高貴な識見をもち実に立派な人格者である。日支事変に関して、全く貴方と同じような意見で国家の前途を非常に心配しておられる。しかるに二・二六事件後世間は誤解して、貴方がたがあの事件に関係があるように思われ、貴方がたは秋月さん一家の敵であるかの如く思われているから、一度貴方が訪問してみたら得るところがあると思う』とのことであつた。そこで自分は喜んで秋月老を訪問した。
話を聞いてみても日支事変に関して全く自分と同じ意見をもつておられた。
自分は昭和十二年〔一九三七〕八月十二日、
「日支事変を早く切り上げなければ結局は世界戦争になつて日本は亡びる。また今日何故に支那と戦争をしなければならぬのか、何の理由もない無名の〔名義の立たない〕戦いではないか。たゞ政治家や軍の一部が共産党に躍らされてその手練手管に乗つている」
ということをしたため〔認め〕、牧野伯を通じて陛下に奏上しようとした書類を秋月老にお目にかけた。秋月老は、
「自分は昭和十五年〔一九四〇〕になるとこれでは日本は亡びるなと大へん心配したが、貴方は日支事変が始まつて一ヵ月そこそこでこれだけの判断をする先見の明がどうしてあつたか」
といわれた。そこで自分は、
「先見の明ではありません、世界を騒がせている根本震源地であるロシアについて、明治四十三年〔一九一〇〕以来関係しておりました。それと一方陸軍のことは兄(元大将)を邪魔ものとしての事件であり、すなわち革命を起すのに邪魔になる人物を真崎〔甚三郎〕としてこれを排撃した。それに陸軍の思想的内容もよく承知しており、海軍のことは昭和七年〔一九三二〕の五・一 五事件に際して時の大角〔岑生〕海軍大臣から、『君よりほかに思想問題の分つた人はないから、是非この後始末をしてほしい』と、とくに懇願されてその衝に当つたから、海軍部内の思想状況もよく承知している。以上三つのことを知つているために、自然の結論としてソ連が音頭をとつて、一貫した世界革命を起す方針のもとに、先ず日本に革命を誘発せんとする作戦の一端に過ぎないことが明瞭であるから、上奏文に書いたような結論を得たのであります」
と答えた。
この秋月氏との関係で吉田茂元首相とも昭和十六年〔一九四一〕頃から昵懇〈ジッコン〉の間柄となつた。
吉田氏もそれまでは、二・二六事件は真崎の仕打ちのように考え誤解しておられた。その後よく話を聞かれて、なるほどいわゆる皇道派はどういうものかという正しい理解をもたれ、近衛〔文麿〕公とともに何とかして皇道派に陸軍の権力をにぎらせ、政権をファッショ軍閥よりもぎとつて、立憲政治の正道に復帰させようとされ、事件の解決のため努力された。
それで昭和十七年〔一九四二〕以後は、平河町の吉田邸で近衛公を中心とし、現鳩山〔一郎〕首相、吉田茂、真崎甚三郎、小畑敏四郎〈オバタ・トシロウ〉、殖田俊吉〈ウエダ・シュンキチ〉、岩淵辰雄氏などが相会し、自分が犬馬の労をとつてこの会に参加した。はじめは家兄甚三郎を首班とする内閣をつくり事件を解決せんとしたが、なかなか誤解にもとづく抵抗が強く、上〈カミ〉、陛下にまで及んでおり非常に困難であつたので、海軍大将小林躋造〈セイゾウ〉氏を翼賛会の総裁に祭り上げ、林〔銑十郎〕内閣をつくつて軍閥の横暴を押え、時局を収拾せんとしたが結局成功しなかつた。
筋書通りのクーデター
そこでどうしても陛下に本当のことを奏上して、日本がこんな馬鹿々々しい戦争に突入した真の理由を了解していただかなくてはならないと考え、「主として陸軍大臣は予備から正しい人物を採用して、時局の解決をはからねばならない。軍の一部が赤化して、天皇さえ存続しておれば共産主義でもいゝというような赤色分子の日本革命の巧妙な二段戦術にかゝつているから結局平和は来ない。日本は共産革命をもつて亡びる」という意味のことを奏上した。
そのとき侍立したのが木戸幸一氏である。それからこのことが東條〔英機〕にもれ、東條は自分の反対派の政府が出来て殺されることをおそれ逆手を使つて来た。そして吉田邸その他の家宅捜索となり、吉田氏は買収された書生や女中を通じて、近衛の上奏の内容を憲兵に奪われて吉田氏以下数名が逮捕されることになつた。幸い昭和二十年〔一九四五〕五月二十三日、二十五日の東京空襲で渋谷刑務所が焼け、また当時鈴木〔貫太郎〕講和内閣であつたために吉田氏一味の命は助かつた。これが吉田前首相が遭難した経緯である。
このときのわれわれの計画が成功していたならば今日ほど日本を混乱におとし入れずに済んでいたろうと思う。
一世を騒がせた二・二六事件についていえば、日支事変を起さしめ、世界戦争に誘導して日本に革命を起すのに一番邪魔になる人物を葬り去ることが、あの事件のソ連のネライであつた。でもこのことを本当に研究しているものはまずない。
真に思想を了解し、世界の動向、ソ連の陰謀を洞察して前途を警戒し、国内における各種のクーデター事件に反対し、満洲事変を拡大せぬように処置した人物がおつては、日本に革命を起すことも出来ず、日支事変を起すことも出来ない。
そこで日支事変を起すのに邪魔になる重要人物を葬るように仕組んだのが、二・二六事件の筋書である。
論より証拠で、世間からみると二・二六事件に関係があり、悪い人間のように思われていたような人物が、陸、海軍から葬られたその翌年から、日支事変になつたことを考えても明瞭ではないか。
二・二六事件ほど?究してもその真相のはつきりとわからぬものはない。自分らは非常なる被害を受けたのだから真剣にこれを研究してみた。
最近の三十年来の日本の政情を知るためには、第一にロシアの革命に引続いて、ソ連の思想戦すなわち世界革命作戦をよく知るとともに、陸軍部内の思想戦、海軍部内の思想の動向、この三つを知つたものでなければ、日本が今日のようになづた理由がわからないのである。
自分はロシア革命前、革命中、取命後にわたり前後を通じて十年近くソ連に在勤し、今日まで研究を続けておつたから、ほゞその真相を掴みうるのである。
事件の処置についても、真剣に考えれば、不可思議極まることが多数あるにもかゝわらず、知識階級といえども冷静にかつ真剣にことの真相を研究しようとしない。
そのため今日でも、戦争責任の所在も、二・二六事件の責任者および事件の処置法についても、一向に明瞭にならないで、正邪曲直を反対に考え、善人を悪人扱いにし、悪人を善人扱いにし、大義名分を顛倒して考えていることが、今日の施策にも反映して、極めて不適当なること多く、また自衛隊の建説にしても、日本の実情と世界の動向、日本の国力などを塩梅〈アンバイ〉した適切のやり方でないものが多く、外敵のみを気にして、国内はまさに活火山のような事態であることを忘れて安眠しているような日本の実情である。
岡田啓介は赤坂にいた?
二・二六事件の処置についてもちよつと考えればこれはオカシイ、これはクサイと思われる筋が多々ある。順次に、その例を挙げて見る。
(一) かの裁判に際して同じことをやりながら、いわゆる皇道派系の人三井佐吉は重刑に処せられているが、いわゆる統制派(満洲事変を起し、つゞいて戦争をはじめ、日本をつぶした一味)は裁判にも呼出されていない。たゞ田中〔弥〕大尉が全国に〝蹶起せよ〟という電報を発信しようとした廉〈カド〉で裁判に呼ばれなければならない破目になり、彼は自決をした。そのために後から彼を操つていた人は裁判に呼ばれずに済んでしまつた。
(二) 元来あの特別裁判を実行するのは、すなわち一審で弁護士もつけず認定するという裁判のやり方は、戦地だけで許されることである。もつとも二・二六事件でも、あの事件が継続して国内は動乱中であるなら、かゝる裁判は一応もつともかも知れないけれども、事件は二月二十八日に終熄して国内は平静状態に戻つていたのであるから、事態を公平に裁き世間に真相を明らかにしようと思うならば、公開裁判を開き普通の裁判を行うべきであつた。しかるに法曹界の人達でさえもこれを一言半句も口に出さないのは不思議な事である。
(三) 更に重大なことは、昭和十一年〔一九三六〕三月の貴族院において阪谷芳郎〈サカタニ・ヨシロウ〉男爵が質問した事柄である。質問の要点は次の通りである。
問 寺内〔寿一〕陸相に対し「一体反軍だというのはいずれの時期からか」
答 「営内を出たときからです」
問 「しからば反軍に陸軍省参謀本部が、たとえ三日間でも占領された責任は誰がとるのか」
註=旧陸海軍刑法によると守所を占領せられたるときは、首領は死刑若くは無期徒刑となつている=これは結局軍の圧迫でウヤムヤに葬られてしまつた。これは重大事件である。これも世間で一向に問題にしないのはおかしな話である。
(四) 次には岡田啓介首相の問題である。事件の日の朝、岡田氏が女中部屋に寝ていたとか、或は政友会が選挙に勝つたのでその祝いで赤坂の料亭に泊つていたといわれる、或は下落合〈シモオチアイ〉の寓居に避難していたとかいろいろいうけれども、これは私的行動であつてとかく論ずる必要はないと思うが、難を逃れておりながら首相として後藤文夫氏を首相代理にしておき、一週間以上も参内しなかつたということは臣節を欠くものであつて、後世の戒めとしても黒白を明瞭にしておく必要がある。
(五) 銃殺された青年将校のなかにはまだ心臓の鼓動があるものを火葬に付したという話もある。元来火葬は死後二十四時間を経なければ実行できないことになつているはずなのに、法を曲げてかゝる暴挙をあえてしたことは何のためであろうか。全く不思議な話である。
(六) 元老西園寺〔公望〕公が興津の寓居から逃れて、静岡県の警察部長官舎に難を避けていたということは、事前に事件を予報したものがあるに違いない。そしてこの二・二六事件の計画が例の三月クーデター事件、十月クーデター事件に酷似している点もよく研究してみなくてはならない。
三月事件〔一九三一〕は将官級がこれを計画し、真崎、山岡萬之助、徳川義親〈ヨシチカ〉の反対にあつて未発に終つた。十月事件〔一九三一〕は佐官級が計画し満洲事変に引続いて起り、主脳者の保護検束をもつてウヤムヤに終つた。二・二六事件は尉官級が計画してこれを実行した。
要するに二・二六事件はこれに参加した人といえども自分がやつたことだけは知つているが、どういう筋書、いかなる目的で、誰が指揮していたか一向わけがわからんで動いていたようである。
もし世間にうわきされた如く立派な人がこれを指揮していたとするならば、革命を実行しようとするものが事件発生後三日間もいたずらに時の推移を待つような馬鹿なことはしなかつたであろう。
時を待つていれば、自分たちは処罰されるに決つている。この一事をもつてしても統一計画を擁する指揮者がいなかつたことが明瞭である。
自分はあの蹶起将校中一人も知つたものなく、また会つたこともないが、今から冷静に考えると、あれらの将校の主張するような政府が出来ておれば、時の政府の重臣たちは殺されたかもしれないが、上、天皇陛下以下日本国民は微動だにせずにこんな馬鹿々々しい戦争も起らないで済んだことと思われる。
タイトルは「雪の首相官邸の秘密」となっているが、二・二六事件当日の「首相官邸」については、何らの新事実も示されていない。
むしろ、この文章で興味深いのは、いわゆる「近衛上奏文」に、真崎甚三郎や真崎勝次が関与していたという事実を証言していることであろう。真崎勝次は、ソ連大使館付武官の経験があり、本人も認めているように、共産主義について一家言を持っていた。「近衛上奏文」の内容に、真崎勝次の見解が反映している可能性は、かなり高いのではないだろうか。
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