◎「困りましたな、困りましたな」(美濃部達吉)
一昨日、昨日に続いて、『特集文藝春秋 三代日本の謎』(一九五六年二月)という雑誌にある記事を紹介してみたい。
本日、紹介するのは、「公職追放委員会の真相」という文章である。筆者は、岩淵辰雄(一八九二~一八七五)である。
文中、太字は原文のまま。
公職追放委員会の真相 岩淵辰雄【いわぶち たつを】
政界一新を旗印に掲げながらGHQの権力に翻弄され政争の具と化した追放委員会の去就をその嘗ての委員が記す
政 界 を 一 新 す る
追放ということが、戦争から戦後にわたつてのエポックに、どれだけの役割を果し、或は意義があつたかというと、俄に〈ニワカニ〉、なんともいうわけにいかない。
私は、追放というものに直接、関係をもつた立場から、決して、無意義ではなかつたと思つているが、しかし、戦争から十年を経過して、いまの政界を見渡すと、政治の指導権は、完全に、追放解除者や戦争犯罪人だつた人達によつて握られている。
政治意識が戦前の古いものをそのまゝ、戦後十年たつたいまの政界に持ち越されている状態である。
追放によつて、戦争までの時代の指導権を握つた人達が第一線を退いたあと、そのブランクを埋めるようにして登場して来た、いわゆる、アプレゲールの新人達も、彼等によつて、戦後の新しい時代を築き上げるだけのものがなかつたのか、戦前派の追放が、次ぎ次ぎに、解除されると、その人達の持つ実力の相違とでもいうのか、いつのまにか、アプレゲールの新人の影が薄れて、時代は、再び、戦前派の人達によつて占拠されてしまつた。こうなると、何のための追放だつたのか。日本人には戦争というものを境にして、時代的に、何の反省も起らないのか、不思議としなければならない。
私が追放に関心をもつたのは、終戦直後の東久邇〔東久邇宮稔彦王〕内閣が、戦争中の古材木、戦争責任者を、そのまゝ連れて来て、戦後経営を、かりに一時的ではあつても、やろうとした、その顔触れを見たときからである。これは、どうしても、戦争中に指導的立場にあつたものは、全部、政治の一線から引き下げる必要があると。
それで幣原〔喜重郎〕内閣になつて、議会を解散するというときに、私は、吉田〔茂〕(当時外相)に勧めた。
〝‥‥戦争中、指導的立場にいたものとか、翼賛議員とかいうものを、そのまゝにしておいて選挙をしても無意味だ。そういうものは先ず、行政的措置で、政界から追放して、それから選挙をするということでないと、政界を一新するということはできない‥‥〟
しかし、吉田は、
〝‥‥その必要はない。奴等、もう屁古垂れ〈ヘコタレ〉ている。選挙さえすれば新しくなりますよ‥‥〟
幣原内閣が、そうして昭和二十年〔一九四五〕の十二月十九日に議会を解散すると、二十一日になつて、占領軍から、〝選挙はしばらく待て〟という命令が来て、越えて、一月四日に、追放令の指令をうけたのである。
この追放令で、政界の分野は、一瞬にして変化した。かつて翼賛会の首脳だつたり、推薦議員だつたりしたものが、枕を並べて政界から退いて行つた。
このときも、幣原内閣は、追放の事務を処理するために、書記官長の楢橋渡〈ナラハシ・ワタル〉を委員長として、役人で委員会を組織し、世間の噂では幣原が総選挙を機会にして、政界に乗り出すために、この追放を利用しているというようなことが伝わつて、直接、私なども、そういう不平、不満を聞かされたので、吉田に逢つてまた、勧めた。
〝‥‥追放というようなことを、政府の役人だけにやらすということが間違つている。民間人の委員会で、公平に審査すべきで、追放を政争の道具にするというような噂が出るだけでも好ましくない‥‥〟
しかし、あのときは、内閣としては、全然予想もしていなかつたことなので、占領軍から命令は出る。選挙は迫つているというような事情で、吉田の説明を待つまでもなしに、内閣は転手古舞〈テンテコマイ〉で、理想的なことを第三者がいつても通らなかつたのであろう。
鳩 山 の 追 放
この前後のことで思い出に残つていることは、矢張り、鳩山一郎の追放である。これは、何かの機会に書いたかもしれないが、或日、或人が訪ねて来た。それは、日本人ではない。
〝‥‥鳩山をどう思うか‥‥〟という、突然の質問だつた。
〝‥‥それは、どういう意味か‥‥〟
〝‥‥鳩山は政治家として、どういう人間か‥‥〟
それで、しばらく、話をしていると、
〝‥‥君の話をきいていると、鳩山は追放に値しない。むしろ、追放すべからざる人間になるが、それはどうだ‥‥〟という。
〝‥‥一体、鳩山を追放しようというのか‥‥〟
〝‥‥既に、決つている‥‥〟
それから、鳩山追放のデータは、一体、どこから出たか、総司令部が自ら調査したのかそれとも他から提供されたのかと訊いたが、それは日本人から材料が出た。それは誰だ。それはいえない。しかし、その間に、大体。どこから衬料が出たか明かになったことであ
る。
第一次吉田内閣になつてからは、吉田は追放委員会を改組して、美濃部達吉を委員長にし、馬場恒吾〈ツネゴ〉を委員にし、民間人三名、関係省の次官三名という構成の委員会にしたが、この委員会で問題になつたのが、雑誌改造の社長山本実彦〈サネヒコ〉だつた。この事情は、私は、また聞きだから、確かなことはわからないが、馬場氏が、いつか、憂欝そうな顔をして、〝しようがないな〟と歎いているから、どうしたのだときいたら、総司令部の干渉が八釜しくて〈ヤカマシクテ〉、山本は駄目だという。〝そんな馬鹿なことがあるものか、委員会は日本の見識でやればよいんで総司令部の干涉で、いうまゝになるなら、何も、美濃部や、馬場氏を要さないんだ〟と激励した。
山本の追放は、委員会の票決に問うたら、三対三で、追放、非追放同数ということになつた。民間の委員は非追放で、役人側が追放を主張したのである。その結果、美濃部さんが〝困りましたな、困りましたな〟と再三思案しながら、遂に、委員長として、非追放という決断を下したのであつたが、総司令部の承認が得られずに、ディスアプルーブ〔非承認〕で追放になつたのらしかつた。
山本の追放が、他の新聞、雑誌の関係者と切り離して、さきに行われたのは、山本が代議士になつて国民協同党の首脳になつていたからで、総司令部としては、山本の追放をもつて、他日、行われる出版並に、文化人関係の追放の基準にしようとしたのらしかつた。出版関係の審査に入ったとき、民生局の係官は、よく、〝山本改造の追放が先例だ〟と主張した。
このときも、私は、吉田にいった。
〝‥‥委員会は、全部、民間人にすべきだ。その民間人も、いまさら、美濃部〔達吉〕博士や、馬場〔恒吾〕氏のような老大家を煩わすまでもない。総司令部と太刀打ちするような若い連中を連れて来たらどうだ‥‥〟
〝‥‥そんな理屈をいつても駄目だ、何しろGSの連中は三十万人も追放しろといつているので、太刀打ちなどできるものでない‥‥〟
〝‥‥三十万人追放しろというなら、追放してやろうじやないか。軍人は勘定に入つていないが、これを計算したなら、それに近くなるだろう。但し、日本の追放は、独逸のと違つて、責任を問うものと、反省を与えるものとに区別すべきで、占領軍のいうように、三十万人追放したら、追放したということで、占領軍の面目をたてたら、反省の機会を与えたもの、そのポストにいたというだけで追放になつたようなものは、順々に、或る期間を経て解除すベきだ。もし、総司令部がそれを認めるというなら、三十万人出そう‥‥〟
新聞・出版・文化関係の追放
こうして、吉田内閣は、昭和二十二年〔一九四七〕の一月、中央公職適否審査委員会というものと、訴願審査委員会というものとの、二つの機関を併行して作つた。
しかし、これは吉田がマックァーサーに逢つて、直接、諒解を得て来たことなので、GSの方は、追放解除のための訴願委員会を作るなどということには、非常な反対で、容易に、これをアプルーブ〔承認〕しようとはしなかつた。
私が追放の委員になつて、最初に打つかつた〈ブツカッタ〉問題は、東洋経済新報、というよりは、総司令部の狙いは大蔵大臣だつた石橋湛山〈タンザン〉にあつたのだが、それに対する日本側の委員のメンタルテストだつた。
それまで新聞・出版・文化関係の追放の基準というものは決つていなかつた。専ら、政界に集中していたので、私達の委員会が発足したとき、総司令部から、文化関係の追放基準を作るようにといつて来た。それで、委員の中から小委員を上げて、終戦連絡事務局の政治部の責任者と協議することになつたが、そのとき、GS〔民政局〕のケージス大佐から、いきなり、東洋経済新報をどう思うか、至急に、返事しろといつて来た。そこで委員の加藤萬寿夫君(共同通信)と、終連〔終戦連絡事務局〕の政治部次長の田中三男君で、手わけをして、十年間位の東洋経済新報とオリエンタル・エコノミストを取り寄せて、徹夜で調べた。加藤君の報告によると、
〝‥‥十年間のことだから、探したら、該当事項が沢山出ることだろうと思つたところが、調べて見て驚いたことには、一つもない。東洋経済という雑誌は偉い雑誌だ。あの戦争中の十年間、よくも、自由主義の立場を守りつゞけたものだ‥‥〟
ということだった。ところが、こういう加藤君や、田中君の調査が、逆に、GSの御機嫌を損じた。
〝‥‥そんな調査では駄目だ。君らがそういう考え方で、東洋経済を支持するなら、先ず君らから追放する‥‥〟
と威嚇した。加藤君は、きすがに新聞人だから、そんな威嚇に恐れるどころか、逆に、反撥したらしいが、田中君の方は役人だから目の前で反撃するわけにいかない。〝あんな口惜しかつたことはない〟と、あとで述懐していた。
総司令部が、いきなり、東洋経済を、特に取り上げて、われわれをテストして来た理由は、そのときには、よく、われわれにわからなかつたが、あとになつて、石橋を狙つたのは、山本で改造をテストケースにしたと同じ様に、東洋経済を追放の基準にしようとしたのらしかつた。
とにかく、この結果、われわれの小委員会は解散を命じられた。何でも、〝加藤と岩淵の参加する委員会で、追放の基準を決めてはいけない〟、つまり、決められたワクの中で、その適用だけをやる分にはかまわないが、そのワクを决めるようなことに、この二人を加えてはいけないということだつたらしい。こつちは、むしろ、有難いしあわせだと思つた位のことだつた。
総司令部の圧力は、これを手始めにして、委員会に加つて来た。そして、幾度も、われわれを総司令部に呼び出しては、委員全部を集めて、長い訓示をする。私は幸か不幸か、奴らの喋舌る〈シャベル〉ことは、一ト言もわからないから、身振り、手振りをしながら訓示するのを芝居でも見ているようなつもりで、黙つて眺めていたが、語学の達者な加藤君などは、〝人を馬鹿にしていやがる〟といつて、よく、あとで憤慨していた。、
総 司 令 部 の 圧 力
追放の関係で、総司令部の干渉に柔順でなかつたといぅので民政局から復讐されたものに庄野理一氏がある。庄野氏は委員会が石橋湛山を非該当と決定したときの委員長であつたが、それがケージスの憎むところとなつて、後に最高裁判所の判事を辞職せざるを得ないことになつた。その裏面は、現に関係者が生存しているので明記することを憚るが、いかに総司令部の係官が感情的に執拗だつたかということゝ、日本の関係者達が利己的な立場から同胞相喰んだ〈アイハンダ〉かという事実を如実に示したものであつた。
平野問題では、また、平野の弁護士として民事で〝仮処分の執行〟をしたために、戸倉嘉市氏は、危く、総司令部から弁護士の職権を取り上げられようとした。総司令部といえども、自由職業としての弁護士を取り上げるということは、実際としても出来得べきことではないが、ケージスは、敢て,それをしようとした。だから、総司令部から嫌われたというだけで、平野は追放になつただけでなしに、裁判でも散々ひどい目に逢つたのである。
追放と私との関係で、いまでも話題にされるのが平野力三〈リキゾウ〉の追放だが、これは〝平野追放の真相〟という本になつて、平野の方で公にしているし、いつか、文藝春秋の増刊で、そのときの官房長官だつた曽祢益〈ソネ・エキ〉が、内閣側の楽屋裏を正直に公にしていたから、それで真相は、ほゞ尽きていて、別に、付け加えるものはないが、私だけの関係としては、一つ二つ思い出がある。その一つは、牧野委員長(英一)との会話だ。
牧野氏が、総司令部で、ケージスに卓を叩いて、ものをいわれて来てから、私を部屋の隅に呼んで、
〝‥‥何とか考え直してくれないか、こゝで総司令部のいゝ分を通さないと、どんなことになるかわからない‥‥〟
〝‥‥どんなこととは、一体、どんなことですか‥‥〟
〝‥‥それはわからないが、大変なことになると思う‥‥〟という。
〝‥‥牧野さん、あなたも学者としては、世界で指折りの人でしよう。ところが、総司令部に来ているアメリカ人は、マックァーサーを除いたら、フーズ・フー〔who's who 〕にも載つていない連中でしよう。GSと内閣とで、政争をするならしたらよいでしよう。しかし、その争いを、われわれの委員会の責任において利用されては困る。どうなるかもしれないが、結局われわれが辞めればよいことでしよう。矢張り初めの決定通り、非該当で押せばよいじやないですか‥‥〟
しかし、委員長は、 われわれが辞めるだけでは済まないでしようと憂鬱になつていた。
もう一つは、ケージスと、ネーピアとが、私を総司令部に呼びつけて、吊し上げたことだ。
〝‥‥日本人の委員の各個人については、いろいろ、噂を聞いている‥‥〟というから、
〝‥‥噂なら、総司令部のケージス大佐のことも、ネーピア少佐のことも、われわれは聞いている‥‥〟といつたら、
〝‥‥どんな噂を聞いているか‥‥〟と顔色を変えて詰め寄つて来たから、
〝‥‥ボクは噂というものを信じていない。日本の諺には、火のないところに煙るたゝぬということがあるが、人を陥れようとする場合の計画的な、火のないところにも煙をたてるものだ。だから、ボクは、この眼で見て、自分で判断し得ること以外は信じないことにしている。したがつて、噂は聞くが信じていない‥‥〟
この吊し上げは、前後四時間に及んだが、最後には私の手を握つて、ケージスが、
〝‥‥僕は君を信用する。君の主張を邪魔するようなことはしないから、君は君の主張通り行動してよろしい‥‥〟といつて、エレべーターまで送つて来て、 二度も、 三度も握手して別れた。
政 争 の 具 と 化 す
もう一つは、平野追放と決した一月十三日の午前に、バンカー大佐(マックァーサーの高級副官)が逢いたいというので会つたら、
〝‥‥平野問題については、オールド・マン(マックァーサー)が、民政局に対して、日本の委員会に干渉してはいけないということを、総司令官として厳重に命令したから、君の主張通り、総司令部の関係に囚われることなしに、主張してよろしい‥‥〟ということだつた。
〝‥‥しかし、そのことなら、ボクに話すよりも、牧野委員長に話して貰いたい。ボクは決して主張は変らないが、委員会の決定を左右するものは委員長だ‥‥〟
そうしたらバンカーは、意外なような顔をして、委員長にそんな権限はない。委員会の決定は委員が決めるものだというから、それはアメリカのような国のことで、日本の、しかもわれわれの委員会は、そういうような在り方にはなつていないといつて別れた。
追放に関しての内輪のことなら、材料は山ほどある。鳩山の解除については、監査課長の岡田典夫君が、解除を主張したというので、ときの官房長官が、岡田君が役所にいるにもかゝわらず、わざわざ、岡田君の留守宅に伝話をかけて、お前の亭主は不都合な奴だから、馘〈クビ〉にするといつて脅かしたということもあつたということを聞いた。もつとも、これは伝聞だから、いまになつて、真偽はしらないが、追放ということが歴代の内閣によつて政争の具に供されたということは、幾多の事実によつて証明すことができる。
政争の道具としての追放ということになると、追放によつて、日本人に反省を与えるなどということは、むしろ、滑稽なことになつてしまう。いまになつて追放の効のなかつたことも理由ありとしなければならぬだろう。