◎終戦直後におけるNHKの聴取料集金人
当ブログ、本年七月四日以降、何回かのコラムで、山路閑古著『戦災記』(あけぼの社、一九四六)という本を紹介した。今回、再び同書を取り上げてみたい。本日、紹介するのは、「日陰の谷戸」と題する文章である。ただし、その後半のみ。
「日陰の谷戸」というタイトルは、当時の筆者の住所、東京都南多摩郡由木村〈ユギムラ〉鑓水〈ヤリミズ〉日陰谷戸〈ヒカゲノヤト〉に由来する。谷戸〈ヤト〉は、東京の多摩地方には、よくある地名で、谷ないし低湿地の意味だという。
ここに描かれている終戦直後の光景は、今となっては、どれもこれも興味深いものだが、個人的には特に、NHKの聴取料集金人が出てくるところが珍しいと思った。
日 陰 の 谷 戸
【前略】
余は戦災と終戦によつて、大半の仕事を失つた。従つて身辺稍々閑暇を生じ、文字通り晴耕雨読の生活を続けてゐる。畑のものは不作だつたが、随筆、小説の類〈タグイ〉は可成〈カナリ〉書き溜めた。取敢ず「戦災記」と題して、その一部を上木〈ジョウボク〉する段取になつてゐるが、戦後の混沌たる思想界にペン一本を以て乗り出す程の自信もないので、矢張り何か適当な仕事を見つけてそれで衣食し、好きな道は日没後の仕事とならざるを得ないであらう。
戦災前、小宅を目ざして来訪する賓客は可成の員数に上り、日としてこれを迎へぬことはないやうな有様であつた。事の趣〈オモムキ〉は「淡々亭日録」にも示す通りである。今は流石にさびれ、買ひ出しを目的の人々がリユツクサツクを背負つてやつて来る位のことである。そのリユツクサツクも来る時は空で、帰りははち切れる程一杯になるのが常で、その逆になるといふやうなことは一度もない。いや、二度ばかり異例があつて、これは特筆に値するかと思はれる。
先づ第一は、旧友の一人である貴族院議員子爵某氏が小庵訪問を思ひ立たれ、手土産〈テミヤゲ〉に大壜二本をリユックサックに入れて持参されたことである。このに肩書のついた人が足を踏み入れたのは、恐らくこれが最初であらう。数時間の中〈ウチ〉にその二本を空壜にして、子爵は又その空壜を背負つて、蹌踉〈ソウロウ〉として帰つて行かれた。凡そ頼みある天狗の酒盛りとて、「松虫」を諷へば〈ウタエバ〉「鵜飼」を答へ、「田村」には「鞍馬」、「高砂」には「猩々」吞めども酔はず、酌めども尽きずといふ訳で、当節一人一升の当てがひ酒、相当にで〔出〕があつたやうに思ふ。
第二は余が二十年ばかり前に教へたことある門弟で、現在は同じ学校に禄を食む〈ハム〉某君がリユツクサツク一杯の法帖〈ホウジョウ〉を携へて来て呉れたことである。リユツクサツクと云へば藷〈イモ〉か大根を入れるものゝやうに相場がきまつてゐるが、これは思ひもよらぬ法帖で、而も袋一杯では相当の量に上るのである。別文にも見えるやうに、余は上海玻璃版などの法帖を少々ばかり集めて持つてゐた。中には余相応に苦心して手に入れたものもあり、その種類は和漢に亘つて数百種、大体用を弁じ得る程度であつた。
その頃、某君ば何処かの邸から疎開の都合で不用になつた法帖の蒐集物を見付けて来て、先生が御入用ならば、包金程度で貰つて来てあげませうと云つた。そこで見本に一二冊取寄せて見たが、余の所持品と似たり寄つたりの安値版で、さしてほしいとも思はず、折角の志だから貰ふことは貰ふとして、当分君の所にでも預かつて置いて貰はうか位の返事をして置いた。
今や余の所持品は悉く焼失して、一冊の顔真卿〈ガン・シンケイ〉を手に入れるさへ、市中を駈けめぐつて、而も馬鹿々々しい高額の金を払はねばならぬ。法帖の恢復など思ひも寄らぬことである。折も折とて某君の背負つて来て呉れたものは、今更貴重品と云はねばならぬ。王羲之〈オウ・ギシ〉の「十七帖」を始めとして、智永〈チエイ〉の「千字文」、欧陽詢〈オウ・ヨウジュン〉の「九成宮〈キュウセイキュウ〉」、虞世南〈グ・セイナン〉の「孔子廟」、褚遂良〈チョ・スイリョウ〉の「聖教序〈ショウギョウノジョ〉」、顔真卿の「多宝塔碑〈タホウトウヒ〉」、其他孫過庭〈ソン・カテイ〉、米元章〈ベイ・ゲンショウ〉、蘇東坡〈ソ・トウバ〉、趙子昻〈チョウ・シコウ〉、文徴明〈ブン・チョウメイ〉、董其昌〈トウ・キショウ〉、鄧完白〈トウ・カンパク〉など、極くありふれたものではあるが、なくてはならぬ基準法帖である。それに行成〔藤原行成〕卿の「御物朗詠集〈ギョブツロウエイシュウ〉」貫之〔紀貫之〕の「高野切〈コウヤギレ〉」俊頼〔源俊頼〕の「古今集」などの上代仮名の若干を加へ、先づ一通りのものは揃つてゐる形である。
法帖もほしいが、酒もほしい。米は尚ほしい。昔は、妻が購入を申し出た子供の着物を却けても、一冊の孫過庭を手に入れることを策したが、今は眼の前に食をねだる子供を見ては、顔真卿も持ち出せない。或る晩、村の隣組常会から帰つて来たが、たまたま炬燵〈コタツ〉の上で「御物朗詠集〈ギョブツロウエイシュウ〉」を玩んで〈モテアソンデ〉ゐた余に向つて、つくづく歎声を漏すのであつた。
「昔の夢を見てゐらしつては困ります。今夜からお薩〔さつまいも〕が一貫目五十円になりましたよ。」
余は恐れ入つて、さつさと法帖を納ひ〈シマイ〉、碁盤目の原稿用紙を取り出した。体裁にも稼ぐ振りをしなければならないのだ。手習に書き捨てる反故〈ホゴ〉は一文にもならないが、碁盤目を埋める金釘文字は一字何銭かに換はる。あたじけなの〔けちな〕世の中や。
余は庭中の百日紅〈ヒャクジツコウ〉の枝にアンテナを掛けて、遠く都のラヂオを聞いてゐる。ラヂオの器具までは疎開させててなかつたが、よその疎開の荷物を預つて、寝かして置くのも勿体ないので、持主の許可を得て使用してゐるのである。ラヂオは実に山の中まで透徹してゐて、有難いことだが、聴取料の集金人も亦深山幽界まで尋ねて来る。高い茅萱【ちがや】を分けてへ入つて来る男をそれと知つた時、余は草の根を分けてといふのはこのことだと思つた。集金人はいかなるいぶせき〔むさくるしい〕農家の軒下へも入つて、じつと耳を澄してゐるから、朝の六時から夜十時まで、殆ど掛けつぱなしになつてゐる小庵などは逃がるゝべうもないのだつた。余は明日にも持主へ返さねばならぬかも知れない、はかないラヂオセツトに対して、一ケ年分の聴取料を支払はねばならなかつた。さうなると急にラヂオが尊くなり、かつては東部軍情報の他には全く聞いたこともなかつたラヂオではあるが、今は三度の飯の間も、原稿執筆の間も、客と対談してゐる間も、子供に小言を云つてゐる間も聞いてゐる。
さるにても、さびれ果てた山の中、こと訪ふ〈コトトウ〉ものとては峯の嵐か、松風か、鹿こそ嗚かね、廂〈ヒサシ〉打つ時雨〈シグレ〉の音に紛れて、小寿鶏〈コジュケイ〉が鳴く。まこと山中閑居の場といひたいところに、カルメンが聞かれ、アルルの女が奏【かな】でられるのは何といふ華かなことであらう。昔の人は山の奥にも鹿が鳴くと云つて、遁世の難き【カタキ】を歎いてゐるが、余はこれと反対に、時に浮れて、幼い子供を抱いてフォツクス・トロツトを踏む。子供はいつか余の両足の上にその両足を載せることを案出し、且つこれに馴れたから、いかなるステツプも足を踏み違へることはない。タララタララタララタ タララタララタララタタララララ ラララ…………